嫌いについて。

気付けば前回から随分時間が経ち、歳を取ったり職が変わったりしていました。こういう時いつも思うのですが、20代あっという間すぎやしませんか。老いさらばえてもアイドルでいたい〜Ah〜(アイドルじゃない

 

さて、27歳になった訳ですが、この歳になってもまだ「嫌いな人が好きなものは好きになれない」という子供じみた拘泥から抜け出せずにいる私です。坊主憎けりゃ袈裟まで憎いとはよく言ったもので、嫌いなアイツが好きな曲を聞いたらその嫌いなアイツの顔がちらついてムカッ腹が立ってくるし、苦手なあの人の好きな映画なら見る前から苦手な気がして見る気もしない。
しかしながら嫌いになるのもエネルギーが要るというのも現実で、誰かを好きになるのと同様誰かを嫌いになることも体力が要って容易にはいかない20代後半。女子高生じゃあるまいし、あの子嫌い、その子もイヤ、なんて言ってられないわけです。女子高生マジでタフ。増して、誰かを嫌いで居続けるなんて体力の無駄だし気分も悪いしいいことなしというものですから、無意識のうちにどうでも良いという方向へ意識をシフトする20代後半。

 

突然ですが、私は矢沢永吉が嫌いです。毎朝出勤時に近道で日産のショールーム内を通るのですが、バカでかいディスプレイに大写しになった矢沢永吉氏が音量設定を間違えたとしか思えないスピーカーで「やっちゃえ、NISSAN」などと言っているのを聞くと鳥肌が立ちます。いい加減隠居してくれ、安室奈美恵もマイクを置いたのだから。
どうしてこんなに嫌いなのかと自分自身でも思うのですが、そこにはどうやら父親が関係しているようだというのが最近わかってきました。
幼少期、私をしつける時に殴る、怒鳴る以外の選択肢を持たなかった父親矢沢永吉氏の大ファンです。未だに毎年ライブに行くようです。ある時、私は何もしていないのに呼び出されて矢沢永吉氏のラジオの録音を聞かされ、彼が何もないところから成り上がって行ったクソどうでもいい(ファンの方ごめんなさい)エピソードを聞かされ、少しでも身を入れていない素ぶりを見せると怒鳴り付けられるという地獄のような時間をすごしましたことがありますが、それくらいのファンです。
その影響で立派にひねくれた私は父親はもちろん彼が大好きな矢沢永吉氏も嫌いです。

 

父親を嫌いだと認めるのには時間がかかりました。仮にも父親です。嫌いになってはいけない、嫌だと思う自分が悪いのだと随分悩みました。悩んだ私は、どうでも良い存在として位置付けたつもりでなんとか回避していたように思います。会うたびに嫌な気持ちに支配されましたが、それでも努めてニュートラルな状態に持ち込むよう努力しました。
私の中で父親を嫌いな人間として決定付けたのは、幼少期のしつけ方、育て方を間違ったかも知れないと父親の口から聞いた時です。なんて酷いことを言うのだと、私は本気で思いました。私が必死で言い聞かせて、意味があったこと、間違いではなかったこととして置いていたものを否定されたのです。その言葉は急速に私の虚構を破壊し、私の父親に対するヘイトを決定付けてくれました。
それからは穏やかでした。私は父親が嫌いで、それでいいのだと思うことが出来たから。その事実は私の心に一部、安寧をもたらしました。

 

随分話が逸れましたが、最終的に私が言いたいのは「嫌いなら嫌いで良い」ということです。他者を嫌うことは悪いことではなく、自分の精神を守るためにしばしば必要なことであると私は声を大にして言いたい。それが肉親であろうと別れた妻や夫であろうと関係ない、嫌いなら嫌いで良いし、それを口に出すことになんら罪はないのだと言いたい。
誰かを嫌うことはエネルギーを使うしいいことはないと前述しましたが、本気で嫌いな人間に対してはその事実を認めた方が随分と楽に生きられるということを私はこの一年以内でようやく知りました。
どうか、ろくでもない嫌うべき人間のためにこれ以上悩む人がいなくなりますように。

 

長い記事に付き合って頂き、ありがとうございました。次は好きについて書きたいなとわりと本気で思う秋の夜でございます。
お身体に気をつけて。それでは。

 

 

精神的露出狂

ご無沙汰しております。
私です。情緒です。

気付けば年も明けており、それどころかもはや一月は過ぎ去って二月もあと僅かとなっております。怖い。時の速さが怖いわ、私。
そんな飛ぶように過ぎる毎日の中で、今年に入ってからちゃんと本を読むようになった私です。綿谷りさの「かわいそうだね?」から始まって、同「勝手にふるえてろ」、川上弘美「溺レる。」と来て、今は彩瀬まる「あのひとは蜘蛛を潰せない」を読んでいる。読む速さ云々を競うのは基本的にナンセンスだと思っているのだが、月2冊のペースならまずまずではないだろうか。主に電車の中や何かの待ち時間でしか読まないので、今遊んでいるスマホのゲームに飽きたらもっと読むスピードがあがるのではないかと思う。

……さて。
本を読むとき、私はあまりカバーをかけることをしないのだが、みなさんは外で読書をする際にカバーをかけるだろうか。書店で買った時に店員さんが巻いてくれる、書店の名前が入ったカバー。真っ白い無地の紙。透明なフィルム。市販の布製や革製のカバー。もちろんカバーをかけずに持ち歩く方や、作品のカバーをはずしたり、裏返したりして持ち歩く方もいることだろう。
最近はお洒落なカバーも多いし、柄にしても多様なものが販売されている。身の回りの小物類のテイストを揃えたい人だと、ブックカバーも近しい雰囲気のものを選ぶ場合も多い。

カバーをかける人には一定数、自分の読んでいる本を他人に知られたくないから、という理由を挙げる方もいるようだ。単純になんとなく恥ずかしい人、表紙が激しめな本を読んでいるからという人が多いが、中には自分の中をのぞかれているような気がして嫌だと感じる方もいるらしい。
彼らの曰く、思考・嗜好を構成するマテリアルとなる小説や読み物を知られることで、自分の脳内や精神のやわらかいところを知られてしまうことを恥ずかしいと感じ、人によっては恐れているのだそうだ。この思考回路は私もわからないではない。心の動きとして非常に興味深い部分もある。

ところで、人は、進化の過程で毛皮をなくし、代わりに服を着るようになった。生身の体を見られる羞恥から隠し、一番やわらかい部分に触れられる恐怖から守っている。謂わば安心をまとうと言ってもいいのかも知れない。
一方で、服をまとわないことを好む人間も、少数だがいる。彼らは羞恥心を煽られることを快感とし、身体をさらけ出すことに興奮する。

話を戻そう。精神とは興味深いことに、体の内にあるものでありながら外に顕現するものである。私室の調度やカバンの中身、口にする言葉や発する雰囲気などなど、人間の精神は様々に形を変えて身の回りに顕れている。
書籍はその中でもとくに雄弁に精神性を語るものの一つだ。本を選ぶとき、私たちは嗜好や思考に則ってそれを手にする。となれば、これにカバーをかけて(例えるなら服を着せて)他人の目に触れないように守ることは、当然の心の動きと言えるし、ある意味正当な進化の発露なのだと言えるかも知れない。
この論に則ると、私のような本にカバーをかけない人間は自らの精神の中枢に繋がる部分を晒し、それに対する羞恥を感じることのない精神的裸族と言えるのではないだろうか。いや、自分の読む本を人に認知されることを喜ばしいとさえ感じる私は精神的露出狂と言って差し支えないだろう。
だが、私はこれを恥じてはいない。むしろこれを読む諸兄にも、どんどん精神的恥部を露出していってもらいたい。語り合おうではないか、互いの恥部について。

このようなことをつらつらと書いてきたが、恐らく親愛なる聡き読者諸兄においては「何言ってんだコイツ」と思われることであろう。なんで読んでいる本を衆目に晒すことが精神的露出狂に繋がるんだ。更新しない間に情緒ぴの頭はバカになったんじゃなかろうか。その指摘は尤もである。だが、これだけは言わせてほしい。
透明フィルム派は、露出狂を越えるド変態である。

みそひともじに魅せられて~俵万智を紐解く~

◆はじめに

俵万智、という文筆家を存じているだろうか。
彼女を知らなくても、『サラダ記念日』という言葉を聞いたことはあるのではないだろうか。
これは、発表当時斬新な手法と読み手の共感をがっちり掴む表現で社会現象まで巻き起こした俵万智氏の短歌、

"「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日"

に出てくるフレーズで、同短歌が収録されている氏の歌集タイトルにもなっている。(ちなみにサラダ記念日は現在日本の記念日として認定されており、「○○記念日」という言い方を一般に拡げたきっかけにもなっている)
俵万智氏をご存知の方は歌人であるイメージが最も強いものと思われるが、実際には氏はエッセイストとしての顔もお持ちであり、また小説家でもあり、はたまた翻訳家でもある。そのため文筆家と書かせて頂いた。
今回は、その最も有名な側面である歌人としての俵万智の魅力を、私なりに紹介したいと思う。


◆感情表現の巧みさ
まずはもっとも有名な現代短歌と言っても過言ではない、サラダ記念日を細かく見ていきたいと思う。

"「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日"
この歌は作ったサラダを「君」に褒められた喜びを爽やかに、また女性らしい茶目っ気を添えて述べた一首ということが伝わるが、丁寧に紐解くことで、よりその感情表現の巧みさが露わになっていく。
まず上の句『「この味がいいね」と君が言ったから』。「この味はいい」でも「この味もいい」でもなく、「この味"が"いい」としているところに注目して欲しい。そこから読み取れるのは、このサラダが普段と変わらない味であるということだ。夫婦の食卓のワンシーンにも感じるし、恋人が家に遊びに来ての一言とも取れる。「君がいつも作ってくれるこの味が僕は好きだな」という賞賛と感謝の色をこの"が"は含んでいる。また、その後に『君が言ったから』と"が"を重ねることで語感を良くし、お互いに想い合っているという感を強めている。仮に「君も言ったから」「君は言ったから」と続いていれば、ドロっとした印象に様変わりすることは明白である。「「この味がいいね」と君が言った」からこそ、新鮮なキャベツのようにかろやかに甘い印象を投げかけるに至り、またこの歌がたくさんの人の共感を集めることとなったのだろう。
続いて下の句『七月六日はサラダ記念日』に注目したい。これを単体で見た時、なぜ七月六日なのだろうと感じないだろうか。なぜ四月七日や十月四日ではなく七月の六日でなければならなかったのか。答えは、『「この味がいいね」と君が言ったから』である。……何を当たり前のことを、という顔をしないで欲しい。今でこそなんでもない日を「○○記念日」として恋人や友人同士で祝うのはよくあることだが、この短歌の発表当時は今一つ聞きなれない斬新な表現であったという。「サラダの味を褒めてもらった」という他人からするとなんでもないようなことで記念日まで作ってしまうほどこの歌の主人公は嬉しかったのだ。加えて、この記念日という表現には言外に『二人だけの』あるいは『自分だけの』という意味をはらんでいる。仮に自分だけの、と仮定してみると「君が褒めてくれた今日という日は私だけの記念日にしよう」と胸の内でこっそり思っている様は幸せと愛らしさに溢れ、より味わい深く感じるのではないだろうか。
以上を踏まえた上での私の解釈としては『いつも通りのサラダを「君が作ってくれるこの味が僕は好きだ」と言ってくれたから、なんでもない七月六日が特別な日に変わったから、記念日と呼んでずっと覚えておきたいな』といったところだろう。女性らしい可愛らしさとおかしみにあふれた一首だ。

俵万智氏の作品の中で、このようなワンシーンを切り取り、言外に感情を表現した歌は多い。

"砂浜のランチついに手つかずの卵サンドが気になっている"
"「クロッカスが咲きました」という書きだしでふいに手紙を書きたくなりぬ"
"さりげなく家族のことは省かれて語られてゆく君の一日"

どれも嬉しい、悲しい、寂しいなどといった感情を表す言葉は含まれてはいない。しかし、三十一音の外にある感情のなんたるかは容易に想像させ得る巧みさが、氏の短歌には多く見られる。読んだ瞬間に感じる感情の海の、もっと深いところまで潜って浸るのも楽しみ方のひとつだ。
この項の趣旨とちょっと外れるが、『チョコレート革命』に収録された一首、

"焼き肉とグラタンが好きという少女よ私はあなたのお父さんが好き"

という短歌は潜ってみると嫉妬、愉悦、うしろめたさ、寂寞といった薄らぐらい感情の渦に飲み込まれるので、一度肴に酒を飲むことをおすすめする。


◆卓越した表現技法
高等学校での国語教師の経験も持つ俵万智氏であるが、国語的表現技法という面で見ても彼女の詠む短歌はずば抜けたものがある。
中でもそれを感じることが出来るのがこれだ。

"「寒いね」と話しかければ「寒いね」と答える人のいるあたたかさ"

細かく見ていこう。
まず、上の句において「寒いね」「寒いね」と繰り返される反復表現。これにより、いかに寒い日であるかと言う感を強めている。そして下の句で用いられる体言止め。"あたたかさ"で終わることで余韻を残し、また口にしたときのリズム感を整えている。
続いて全体を通して見た時の対比表現。"寒い"と"あたたかさ"、"話しかけ"ると"答える"。これにより、冷え切った日でもこうして「寒いね」と言い合える人間のいるあたたかさを強調している。細かいところではあたたかさにかかる修飾語の句またがりや、"あたたかさ"とあえて平仮名で書くことでやわらかい表現にしているところなど、この一首がかなり技巧派であることがわかる。
以上を踏まえた上での解釈は『身も心も冷え切ってしまうような厳しい寒さにあって、「寒いね」と話しかけるとそのまま返してくれるような相手がいることはあたたかく、幸せであることだ』といった具合だ。

このように技法が優れていると感じるのは他に

"思いきり愛されたくて駆けてゆく六月、サンダル、あじさいの花"
"潮風に君のにおいがふいに舞う 抱き寄せられて貝殻になる"
"なんでもない会話なんでもない笑顔なんでもないからふるさとが好き"

などがある。どんな表現が使われているのだろう、という切り口で作品をほどいていくのも面白い味わい方かもしれない。


◆実際に感じているような情景の表現
氏の短歌は共感性が高いということは既に述べたが、その場その場のシーンの表現もまた括目すべきものがある。これについては個人の想像や思考によって大きく左右されてしまうものもあるが、想像を刺激し、読んですぐにまるでその場にいるかのような、その光景を目にしているかのような感覚を起こさせるものが氏の短歌には多くある。

"地ビールの泡(バブル)やさしき秋の夜ひゃくねんたったらだあれもいない"
これは一種の侘しさをコミカルに表現した一首だが、これを読んだとき、マンションのベランダで街の明かりを眺めながら缶ビールを傾ける光景が目に浮かんできた。人によっては立ち飲み屋の雑踏の中でのシーンだったり、好きだけど一緒になってはくれなそうな相手との一コマだったりすると思う。個人個人の持つ想像力に強く訴えかける一首だ。

また、歌集『チョコレート革命』における生々しさも必見だ。高校時代、初めて『チョコレート革命』を開いた時、読んでいるだけで後ろめたい気分にさせられたものだった。
"妻という安易ねたまし春の日のたとえば墓参に連れ添うことの"
今頃は彼は家族と墓参りだろうかと考えながら部屋で鬱屈とした感情を抱えているようなシーンだろうか。生々しい。いっそ毒々しい。この句の意訳をすると、『たとえばうららかな春の日、彼の墓参に連れ添うようなことが安々と出来てしまう妻という立場が妬ましい』となる。さらには安易に妻と言う立場に収まっているお前がうらめしいというようなおどろおどろしい感情が潜んでいるのも受け取れる。
『チョコレート革命』は全体として不倫がテーマとなっている。実は、"地ビールの~"も『チョコレート革命』に収録された一首である。そういった前提で見ると……また違った見方に変わるのではないだろうか。


◆随所に見られる刺し殺す表現
最後に、『サラダ記念日』によって爽やかなイメージのある俵万智氏であるが、油断していると唐突に刺し殺されることがあるのをご忠告しておく。これは私の主観でしかないが、固い棒で思い切りブン殴られるような、鋭利な刃物で心をエグられるようなものが中には存在する。それらをいくつか紹介して、筆を置こうと思う。

"愛することが追いつめることになってゆくバスルームから星が見えるよ"
上の句のセンセーショナルな書き出しと、下の句のファンタジーにも感じる結びの対比が鮮やかな一首だ。これを現実と捉えた時、バスルームから星なんか見えないだろうと思うかも知れない。おそらくこの星とは天井にはねた水滴か、まぶたの裏の光景だと推測される。それを眺めながら"愛することが追いつめることになってゆく"としみじみと考えているのだ。パッと見のファンシーさとはかけ離れた虚無感である。

"「勝ち負けの問題じゃない」と諭されぬ問題じゃないなら勝たせてほしい"
「じゃあ勝たせてよ。お前それ妻にも同じセリフ吐くのかよ」ってヤツ。そりゃそうだわ。実際にこれを言われている場面を想像したくない一首。想像したが最後グサっと刺さって抜けなくなる。そして読んだ以上想像せずにはいられない。

"愛された記憶はどこか透明でいつでも一人いつだって一人"
愛されている内は愛されているのだけれど、それが思い出に変わった瞬間に境界線が曖昧になって、透明に変わっていく。残るのはいつだって孤独だ。常にある寂しさを表現した一首と言えよう。"いつでも"、"いつだって"と重ねるところがまた孤独をあおる。

 

以上、いくつかの視点で俵万智氏の短歌について筆を走らせてみた。これを読んだあなたが明日、本屋に行って氏の歌集を手に取ることを切に願う。いつか俵万智の短歌を味わう会を催したい。
近頃めっきりと寒くなったので、皆様におかれましてはどうか体に気を付けて。

それでは。

 

俵万智氏の公式HP→http://gtpweb.net/twr/index.htm
紹介した短歌の引用元→http://gtpweb.net/twr/sakuhin.htm

哀しき狩人たち~女好き男の行動原理~

///CAUTION!///当記事は18歳未満の青少年にとって不適切な内容が含まれている可能性があります。///CAUTION!///

世に女好きの男はかくいれど、彼らがどんな心理のもとで女性たちをとっかえひっかえしているのかまで踏み込まれることは少ない。何せ、彼ら自身もよくわかっていないのだから仕様がない。ヤりたいからヤる、ただそれだけだと思い込んでいても、その実深層では別の行動原理によって一連の行動が導かれている場合も少なくないのだ。
そこで今回は、彼らをいくつかの系統に分けてその行動原理を探ってみようと思う。
「あー、こういうヤツいる!」ぐらいの心持ちで読んでいただければ幸いである。


◆根はまじめ!?ハンタータイプ
セックスをすることそのものより、そこに至るまでの過程を重視するハンタータイプ。彼らは狩りを楽しんでおり、しばしば狩りそのものが目的となっている場合もある。相手が難攻不落な美女であるほど燃え上がり、わりと面食い。彼らにとって食べることはあくまで終着点でしかない。言わば狩りが成功したことを示す儀式とも言える。
彼らは狩りの最中は基本的にノリが軽いが、自分の持つ力を惜しまず、総じて恋愛スキルが高い。デートのプランを綿密に練り、気に入りそうなアイテムをリサーチしてプレゼントし、不快にならない声のかけ方を熟知し、ワンナイトに持ち込むためにおごる酒を惜しまない。これらは女性を喜ばせるために身に付けたスキルと言うより、そうしている自分が好きで、かつ狩りの成功率をより高めるための技に他ならないのだが、この点において彼らは非常に紳士的かつ恐れ知らずであり、評価すべき点であることは間違いないだろう。もっとも一度セックスすると興味をなくし、途端に面倒な女扱いになるが。彼らのセックスは独りよがりになりがちなので、女性としてもその方がいいのかもしれない。
ハンタータイプとうまく付き合うには、つかず離れずの関係を保って、上手に転がしてやるのが望ましい。そうすれば、彼らは自分が彼らにとって魅力的でいる限り追いかけ続けてくれる。
基本的に彼らはちゃんとした交際関係を結ぼうとはしない。しかし一方で前述のようにうまく転がし続けてやっていると、ある時コロっと落ちることがある。狩るべき獲物から、守るべき存在に変わるのだ。こうなった場合、彼らは滅多に浮気もしないし、努めて紳士的であろうとする。これが世にいうライオンハートというやつだろうか。ある意味悪女にハマりやすい悲しい習性と言えなくもない。
なお、このタイプのもう一つの特徴として、唐突に結婚報告をする、というものがある。しかもこれと言って特徴のない地味めな女性を連れてくる。結婚式で「あんなにやんちゃだったのに、あんなおとなしそうな子と結婚するなんて、わからないものだね」とかこっそり言われちゃうのである。


◆欲望に忠実!グルメタイプ
自身の欲望にもっとも忠実なグルメタイプ。とにかく雑食で、自分の興味や欲望のままに突っ走る。首から上にはあまり興味がなく、体型もそこまで選ばず、"落としやすい女を落とし、ヤれそうな奴とヤる"という、良く言えば博愛精神の持ち主である。彼らもまた、滅多にキープをしない。しかし美味しい料理がそうであるように、自分好みの相手に出会うと躊躇なく囲いにかかり、場合によっては恋人同士の関係も望む。かと言ってそれで落ち着くかというとそうでもなく、他に魅力的な女性がいればコロっと浮気をしてしまう。もちろん、飽きたらそれまでである。
このタイプが行き過ぎると、性嗜好障害、俗にいうセックス依存症に陥る可能性がある。性行による快楽から抜け出せなくなり、不眠症を始めとした日常生活に支障をきたす精神疾患を併発してしまうので、身近にこのタイプがいていよいよ行動が怪しく思えてきたら、早めに病院へ連れて行くことを推奨する。
さて。彼らはセックスそのものを目的として行動しているため、あっちをつまみ、こっちを囲いとやっている内に自然と技術が身に着いていることが大半である。彼らのセックスは濃厚で情熱的だ。突出した性癖がある場合も多く見受けられる。基本的に食べたらごちそう様をちゃんと言うものの、翌日からぱったりと連絡が来なくなる場合も多い。
そんなグルメタイプと異性としてうまく付き合っていくのは難しい。でも万が一、どうしてもこのタイプの男性を好きになってしまったらどうしたら良いだろう。答えは簡単で(何においても言えることではあるが)常に魅力的で在ることだ。では、彼らにとって魅力的とはどういうことであるか。欲を満たしてくれる存在、それこそが彼らにとって魅力的な存在であると言える。相手の好みを探り、セックスの技術を研究し、なんなら料理スキルも身に着ければ相手がハマり込むのも時間の問題だろう。


◆ボクだけの王国を作ろう!独裁者タイプ
常に数人の女性を囲い、一種のハーレムを形成する独裁者タイプ。彼らは女性を思い通りに侍らすことに重きを置き、常に2~3人の女性をキープして囲い込む。そうすることで、彼らは自分のプライドを保つのである。一種の自己愛だ。彼らは根本的に自分が人類の上位種であるという考えで行動するため、他人が自分に従わないことをひどく嫌う傾向にある。そのため、自分に従わない者は容赦なく関係を断つ場合が多い。また、自分以外の人間を信頼することが極端に少ないのも特徴で、簡単に関係を断つことのもう一つの所以でもある。また、若いころは(少なくとも女遊びに関して)落ち着いていたにも関わらず、35歳頃を境に突然独裁者タイプとして覚醒する者も中にはいる。
彼らの武器はそのカリスマ性だ。自分は正しいという自信に満ち、いかなる恩恵を受けようとそれが当然だと信じ、大抵何某かの確固たる信念を持っている。それは時折強烈な光を放ち、自分に自信のない人間やマゾヒストにとって崇敬の念を起こさせる。そして、一種のマインドコントロール状態に陥る。「この人に奉仕することが自分の喜びである」という考えに、自然に持っていかせるのだ。彼らが使うこの人心掌握術の恐ろしいところは、囲った女性に他にも囲っている女性がいると平気で言ってしまえるところであり、それが許される心理を相手に植え付けてしまうところである。当然行きつく先はドツボと言うより他ない。
彼らとうまく付き合っていく方法は三つある。まず、甲斐甲斐しく寄り添い続ける方法。これはあまりおすすめしない。「この女には何をしても大丈夫」という考えに至る可能性があるからだ。しかし一方で、彼らの唯一の心のよりどころに落ち着く場合もある。ただしどう頑張っても浮気はするので、諦めた方がいい。二つ目は彼らが落ち込んでいる時にその隙間に入り込む方法。オーソドックスだが、最も効率がいい。尚、元気になったら普通に浮気はする。最後の方法は、「この女には敵わない」と思い知らせる方法。彼らは自分のプライドを傷つけられることを嫌い、従わないものを切り捨てるが、嫌だとか腹が立つとかそういった次元でないレベルでボッコボコにすれば話は別だ。常に一歩先を歩き、優位なポジションをキープし、間違っている部分を冷静かつ皮肉交じりに否定してやるのだ。鼻っ柱をへし折ってやれ!メンタルをバッキバキにしろ!こうすることで、結婚しても妻に頭の上がらないカリスマ営業マンみたいな絵に描いたような優秀な夫が完成する。浮気の可能性は捨てきれないが、その時は慰謝料を相場の三倍ふっかけてあげよう。


◆愛情に飢えた獣!?メンヘラタイプ
ある意味一番厄介なメンヘラタイプ。大きく括ったが、自傷型と依存型の二種類が存在する。
自傷型メンヘラタイプは多数の人間と性行を重ねることで自分の体を汚し心を傷つけることで自分の存在を確認する。回避依存気味のきらいがあり、相手が本気になればなるほどその状況、関係性から逃げようとする心の動きが生まれてしまう。いずれにしても持っていた孤独や虚しさよりさらに大きな虚無感を抱え込むことになり、それを埋めるためにまた一時の情事を繰り返す。なんとも虚しい悪循環。
一方の依存型は自分を受け入れてくれる相手を常に求めている。そして、その最上級の形がセックスであると信じている。見た目にもわかりやすいし。恋人であろうとセフレであろうとその関係性の如何に関わらず、相手が離れていくのを異常に恐れる傾向があり、別れ話が出ると逆上したり腕を切ったり目が死んだりする。意外と死なないし、他にも何人かいるかすぐ次を見つけるので面倒になったらバッサリ切り捨てることをお勧めする。むしろそうしないと、よほど健全な魂の持ち主であろうと共依存ルートにまっしぐらである。
メンヘラタイプに共通しているのは、愛情に飢えているという部分である。彼らの精神の成長の過程で親からの愛を受けられなかった経験や、歪んだ恋に振り回された経験というバックボーンが存在し、これらが女性の同情を誘って母性を刺激する。「この人は私がいないと死んじゃうんだ」という心理を起こさせる。彼らの行動の根源は何らかの精神疾患PTSDによるものなので、うまく付き合っていくならとっとと病院に連れて行くことが望ましい。そうでなければお互い疲弊し、傷つけ合っても別れられない泥沼にハマり込んでしまうからだ。メンヘラタイプを好きになって、支える生き方を選ぶなら相応の覚悟が必要となる。
ちなみに、メンヘラタイプ自体は一種のステータス異常なので、快復すると普通の優しい恋人になる……かもしれない。


意外と長くなってしまったが、いかがだったろうか。
実はこの記事、書くと言って延々半年以上ブッ飛ばしていた記事である。言い訳はしません。すみませんでした。
これを読んだ女好き男がちょっと自分の行動を顧みたり、そんな男にハマった女性が何かを得るきっかけになれば幸いである。そこまでいかなくても何某か楽しんでもらえたなら冥利に尽きるというものだ。

それでは。

「これが現実なら、境目はどこ?」 - 『ダゲレオタイプの女』感想

 

黒沢清監督のフランスにおける初監督作品、映画『ダゲレオタイプの女』を観た。非常に良かったので、珍しく感想のようなものを書いてみようと思う。
まず、映画のあらすじを以下に引用する。

"ダゲレオタイプの写真家ステファンのアシスタントに偶然なったジャン。その撮影方法の不思議さに惹かれ、ダゲレオタイプのモデルを務めるステファンの娘マリーに恋心を募らせる。しかし、その撮影は「愛」だけではなく苦痛を伴うものだった……。芸術と愛情を混同したアーティストである写真家のエゴイスティックさ、父を慕いながらも拘束され続ける撮影と家を離れ自らの人生をつかみたいマリーの想い、撮影に魅了されながらもただマリーとともに生きたいジャンの願い、そして、自ら命を絶っていたステファンの妻の幻影……愛が命を削り、愛が幻影を見せ、愛が悲劇を呼ぶ。世界最古の撮影を通して交わされる愛の物語、愛から始まる取り返しのつかない悲劇。これまでにないクラシカルで端正なホラー・ラブロマンスが誕生した。"
(公式サイトより。http://www.bitters.co.jp/dagereo/)

あらすじから読み取れる限りでは(ホラーとは書いてあるものの)ヒューマンドラマの要素が強く感じるが、この作品の源流は所謂「幽霊屋敷モノ」と呼ばれる作品群にあると思われる。全体に幽玄な雰囲気が漂い、コンスタンス・ルソー氏が演じる写真家の娘、マリーには一種のかそけさすら感じる。また、全体としてはフランス映画らしく、流れる雰囲気を重視した情緒的な作りになっている。

さて、本作の感想を語る前に、ダゲレオタイプカメラについて少し触れておく。ダゲレオタイプとは170年ほど昔にパリで発表された世界初の実用的な撮影技法である。銀メッキを施した銅板等を感光材料に使うため、日本では銀板写真などと呼ばれることもある。もっとも大きな特徴としては、現代の主な写真が明暗の反転したネガティブフィルムを用いて現像するのに対し、ダゲレオタイプで撮影されたものはポジティブフィルムとなるため、撮影された写真は世界に一枚しか存在しないというものになる。また、露光時間が長く必要なのも特徴で、当時のパリでは日中でも10分~20分の露光が必要となり、肖像写真などには向かなかったと言われている。
劇中では、等身大の写真を撮るために巨大なカメラを用意し、60分以上の露光時間の間モデルが動かないようにするために拘束具を用いていた。この「モデルの肉体を拘束し魂を写真に固定する」という行為が父と娘、写真家と助手、男と女の間に特別な関係性を産み、やがてそれらは愛憎を孕んで狂気へと昇華していく。

全編に流れる淡泊とも取れる幽玄な雰囲気はまさにフランス映画だ。(個人的にフランス映画は雰囲気を味わい、愉しむものだと思っている。食べ物でいうとトリュフ)
しかし、少し踏み込んで観てみるとこの映画が細部まで練り込まれ、繊細な作りをしていることがよくわかる。その一端として紹介したいのが(この映画の感想として私が一番に感じたことでもあるが)、妄想と現実の区別がつかなくなる、という点である。作品の前半で、黒沢清氏は様々な境界を描いている。田舎と都会、生と死、親と子、現在と過去、虚構と現実。そういった境界をタハール・ラヒム演じる主人公のジャンが自宅と写真家のスタジオとを地下鉄で行き来したり、ダゲレオタイプカメラの操作を助手として一歩引いて見たりするといった形で浮き彫りにしていく。中盤にさしかかると、それらの境界を浮き彫りにするような描写は減っていき、次第に視聴者は今観ている映像が(物語の中で)虚構なのか現実なのか区別がつかなくなってしまう。随所にちりばめられた違和感と融合した、この不気味で背筋から這い上がってくるような感覚は、まさしく古典ホラーのそれである。

うっかり物語の核心にふれてしまう前に、筆を置こうと思う。感想というより紹介になってしまった感が否めない。
ともかく、約130分という長編の映画にも関わらず、飽きることなくラストシーンまで夢中で観てしまった。さながらダゲレオタイプの撮影のために拘束されたマリーのように椅子に固定されていた。10/15より公開の『ダゲレオタイプの女』、上映している映画館は限られてしまうが、ぜひ劇場であの幽玄な狂気を体感して欲しいと思う。

劇場情報→http://www.bitters.co.jp/dagereo/theater.html

かくも愛らしき猫耳ベビードール

みなさんご無沙汰しております。情緒です。

近頃あまりにブログを更新していないので、ask.fmで以前書いたものを再編集してお茶を濁そうのコーナーです。今回は以前書いた猫耳ビードールの魅力について改めて述べたいと思います。
まずは猫耳、ベビードールそれぞれの魅力、そして最後にそれらを合わせた時の魅力について書いています。それでは行ってみましょう。

 

猫耳の魅力
言わずと知れた萌えアイテム界のクィーン的存在。大別してカチューシャタイプとヘアピンタイプの二種類が存在する。近年では装着者の脳波をキャッチしてぴこぴこ動くという業物も登場。その人気は衰えることなく続いている。
第一に注目すべきはそのフォルムである。何せ、猫の耳だ。キュートで然るべきである。ふわふわの肌触りは見目にも愛くるしい。また、見た目のバリエーションが豊富なことにも触れておきたい。形としては三角型、横開き型、スコ型等。そこに加えそれぞれに長毛タイプ、短毛タイプ、鈴付きなどのバリエーション、柄や色など多岐に渡る。また、珍しいところではヘアピンタイプに見られるウィッグ型も存在する。ちなみに私は短毛横開き型白猫耳が好きだ。大好きだ。黒もいい。ヒョウ柄は勘弁つかまつる。
次に猫耳、引いては猫の持つイメージである。気まぐれ、奔放、甘え上手。猫耳猫耳であって猫そのものではないから、そういったイメージのいい部分だけを抽出することが出来るのだ。加えて、猫は愛玩動物である。ペットとして人気の高い動物だ。ここまで読んだ諸兄らはもう見えてきたであろう。そう、猫耳を付けた人間に附帯するイメージは一種の隷属だ。だがこれは犬とは違って軟禁のイメージであり、主従関係はあれど気持ちの面では対等か、それ以上である場合も在りうる。猫耳を付けた者は支配されているという認識の下であれば何をしても許されるのだ。べたべたに甘えてもいいし、つんけんとツレなくてもいいし、じりじりと攻めてもいいのだ。
つい長くなってしまったが、続いてベビードールの魅力に移る。覚悟はできているか。私は出来ているぞ。

 

・ベビードールの魅力
こちらは知らない人もいるであろう。アンダーバストの返しからカーテンのように透綾っぽい生地が広がる物がオーソドックスな形とされる、寝間着やルームウェアとしての下着の総称である。キャミソールを究極までお洒落にしたもの、というとイメージが付きやすいかも知れない(全然違うけれど)。情緒的生活を送る女性諸君のマストアイテムと言えよう。透け感のある生地で作られているものが多く、白、薄いピンク等が多くみられる。形としては前述のキャミソール型のほかに、前が完全に開いていてヒモやリボンで結ぶものや、フリルやリボンをたくさんあしらってよりかわいらしさを演出したドレスのようなものなどがある。The 女の子感があり1970年代に登場して以来、未だ根強い人気を誇っている。また、プレイスーツとしての需要も高く、オーソドックスな形から様々な(やらしい)アレンジが加えられている点にも着目したい。
はっきり言って、その破壊力は計り知れない。ベビードールの上にもこもこカーディガン等を羽織れば十分に部屋着として通用する形ながら、下着としての(ひょっとするとそれ以上の)無防備さを体現している。一方で上品さや可愛らしさは全く損なわれないのだ。これこそがベビードールの最大の魅力であると私は考える。ここまで来るといっそあざとい。そのあざとささえも魅力に取り込んでいる。
また、色味によって受ける印象が大きく変化する点にも注視したい。白や薄ピンクなら少女性を、黒や青なら大人の魅力を、赤や紫なら扇情的で小悪魔的な印象を与えてくれる。女性諸君は是非一度着用することをお勧めする。見た目の可愛らしさに加え、機能的にも優秀であることがよくわかるであろう。
ビードールを部屋着にすると、それだけで生活が豊かになるのだ。
さて、いよいよ大詰め。猫耳ビードールのお時間です。もう少しだけ付き合ってみようという好事家、もとい、酔狂な皆様、準備はよろしいだろうか。

 

猫耳ビードール
はい、来ました。来ちゃいましたよ""神""が。猫耳の魅力については前述の通りであるが、猫耳の真価はむしろ他と組み合わせた時にこそ最大限に発揮されるものである。併用されたアイテムの効力を数段飛ばしで跳ね上げる、言わば加速装置のようなものだ。そこにつけて、ベビードール。こうなってしまえばもう手が付けられない。バースト寸前だ。
猫耳のイメージにベビードールのイメージを乗算すれば、その可能性は無限大だ。コケティッシュであろうとあまあまキュートであろうとなんならエロス、エレガンス、スレイヴ、なんでもござれだ。
私はあえてここで短毛横開き型白猫耳に光沢のある白シルクのオーソドックスなベビードールをお勧めしたい。そこにあるのは少女性の顕現、愛くるしさの化身である。
そしてもう一つ、長毛三角型黒猫耳に赤に黒い縁取りの前開き型ベビードールを提言したい。扇情に悶える、コケティッシュモンスターの完成だ。

この記事を参考に、世の女性諸氏にはぜひ、猫耳ビードールにチャレンジしていただきたい。

 

以上、つらつらと書いてきたがいかがでしょうか。猫耳ビードールの魅力の一端でも理解が進んだなら書き手冥利に尽きるというものです。世の中でもっとたくさんの人が日常に猫耳ビードールを取り入れ、幸福な生活を送ってほしいと強く願います。

それでは。

バイタリティティティーーーン

近頃とことんやる気がない。骨の芯、血の一滴に至るまでやる気のなさが満ち満ちている。最早これは生命の危機だと言えなくもない。哀れ私はやる気のなさが故に死ぬ。合掌。

何に対してやる気がないのかと問われれば、それはもう何もかもだと答えざるを得ない。仕事に対してのやる気なんて毛頭ないし、原稿を進めようにもなかなか筆を握れず、果ては家事をやるにもやり始めるまでに時間がかかる。そうしてやる気のなさを巨大なモンスターを狩り倒して誤魔化している。そう、モンスターハンターに未だハマっているのである。ゲームの中の私は強い。近頃はスキルシミュレータを駆使してキメラ防具を作成するのに執心している。断言しよう。これに対するやる気だけはある。

しかし、ゲームに対するやる気だけあったって仕様がない。ゲームは楽しいが、ずっとやっていると時間は無為に過ぎ、脳は頭痛を訴え、恋人は怒り出す。いいことナシだ。
実際の所、やる気のない無気力な自分というのは好きではない。本当はやる気を出して頑張りたい気持ちだってちゃんとあるのだ。しかし襲い来るやる気のなさ。一方でいよいよ本気を出し始めるやる気のNASA。バイタリティ、それがやる気の名さ。やる気スイッチはどこだよ。鍼灸とか行けば押してくれるかな。たまごっちのリセットボタンみたいなヤツを。

さて、仕事に対してやる気が出ないその大きな要因として挙げられるのが、まず根本的に仕事に対して魅力を感じていないというものがある。現在電話対応の業務に就いているが、電話対応の性質上働き方は極めて受動的な物に近い。そのため日によって忙しさが大きく変わってしまう。暇な日はもうどうしようもなく暇で、なんとかやることを探すしかない。当然時間の流れも遅い。結果、やる気をなくすということになってしまう。
やる気がなくなるもう一つの要因として、給料が少ないというのがある。割に合っていないとどうしても感じてしまう。だってもうじきまる七年だぜ?それで入社時から3,000円くらいしか上がってないって何?おかしくありゃぁせんかぃ?とどうしても感じてしまう。
だからやめる。颯爽と。そしてステーキを食べる。ガッツリと。
新しい職に就けば、いろいろと新鮮なこともあるだろうから、当面はやる気の面で心配は要らないだろう。新しい風が必要なのだ。
これで仕事へのやる気のなさについては解消されたも同然だ。

他の部分はまあ、なんとかなるだろう。
なんとかなるだろうと書いて気付いた。家事とか執筆にやる気が出ない原因ってこうやって考えることを放棄する所から始まっているのでは?めんどくさがって思考停止するからエンジンがかかりにくくなっているのでは?油を注すことにばかり気を取られてエンジンのかけ方忘れてるだけなのでは?
なんたることだ。今世紀最大の発見!薄明に混ざり在る紺碧の手と握手!
人間、思い立ったらすぐ行動するくらいでないといけませんね。脳みそや心が錆びつく前に、ちゃんとしなくては。
では。