なぜ男性はかけたがるのか論考

※タイトルこそちょっと伏せましたが要するに顔射の話です。18歳未満の方、性的な話題が苦手な方はそっとブラウザを閉じてください。

■はじめに
男性が射精する際、その精液を相手(男性・女性は問わない)の顔にかける行為を一般に"顔射"と言い、この行為を好む男性や、してみたいと感じている男性は多数存在しているものと見られる。
さて、この顔射には、精液が目に入った際に結膜炎や視力の低下、悪くすると失明する恐れがあるといったリスクが伴う。そこまで大袈裟なものでなくとも、ベッドで顔射に及べば飛び散った精液で寝具が汚れる可能性があり、風呂場等すぐに流せる場所であったとしてもお湯がかかった精液は非常に落ちにくいため、処理が面倒である。さらには達した直後に接吻も出来ない。一貫してかけられる側にメリットがないのだ。女性やネコの中には、顔射を嫌がる者も少なくない(中には喜んで受ける人間もいる。それはマゾヒズムであったり、自傷に近い心情であったり、相手を受け入れたいという欲求であったりと様々だが、今回の論考とは関係がないのでまたの機会があれば)。
にもかかわらず、なぜ男性はかけたがるのか。今回はその心理について考察したいと思う。

■アダルトビデオの影響
この手の話題に於いて第一に挙げられ、それなりの説得力を持つものが矢張りアダルトビデオ(以下AV)による影響である。そもそもAV産業における顔射のおこりが何かというと、ネット上のフリー百科事典Wikipediaには以下のように書いてある。

"(前略)性器部分がモザイク等による修正のため「性行為を行なっていないのでは?演技なのでは?」と言う批判や疑念を払拭するために、かつてはAV男優がAV女優の体に向けて射精し射精の様子と精液を撮影することで性行為を証明していた。更に、視聴者を興奮させるために、AV男優がAV女優の顔に射精する演出により人気を博した。(以下略)"(Wikipedia-顔射https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A1%94%E5%B0%84)

元々は「性行為をしていますよ」という証明として膣外射精を行っており、その派生としての顔射があった訳である。「安心してください、出してますよ」という訳だ。さらにその発展形として人気のあるジャンルに『ぶっかけ(英:Bukkake)』があるが、これは本旨と少し外れるのでここでの考察は控えるものとする。
男性の中にはAV中でのセックスを手本や模範のように捉え、それを実践することで全ての女性が悦ぶとして疑わない者も一定数いるという面からも、AVによる影響という側面は捨てきることは出来ないが、それが全てとは考えづらい。
引用部分の最後の行に着目すると、"視聴者を興奮させるために、AV男優がAV女優の顔に射精する演出により人気を博した"とあり、『顔にかける=興奮する』の図式はこれ以前にも成り立っていたことになる。よって以降は『なぜ興奮するか』という部分について言及したい。

■性的征服欲とは
人間に限らず、生き物の雄には多くの場合、根本的な欲求として他より優位に立とうとする『支配欲』またそれを満たすための『征服欲』が働くとされている。性交における、いわゆる『性的征服欲』の発現の形としては、「あたしエッチしててイったことないのよね」と言う相手を痙攣するほどイかせてやろうだとか、あまり乗り気でない相手が次第に積極的になり自分から腰を振るところが見たい、といったものが挙げられる。余談だが、性的征服欲や支配欲が肥大し過ぎると、恋人や夫がいる相手でしか興奮できなくなったり、レイピストになったりする。犯罪なのでやめましょう。AVやポルノ媒体でのファンタジーなら可。
ここではなぜ男性はかけたがるのかの一つの答えとして、この性的征服欲の発露を軸に展開したいと思う。

■なぜ男性はかけたがるのか
顔射を行うに際し、精液を顔にかけるには男性器を相手の顔の前に差し出さなければならない。この時、男性の目線は相手よりも高い場所に位置し、見下ろす格好になる。性的支配欲・征服欲を満たすポイントとして、この見下ろすという状態は極めて重要な意味を持つ。
また、人間は男女の如何を問わず美しいものを破壊したいという欲求も併せ持っている。美に対し、『破壊』や『汚す』という行為で以て支配してやろうという考えが働くのである。顔射をすることにより、自分の精液で自分の愛する相手の顔を汚すことで、視覚的にも精神的にもその欲求を満たすことが出来るのだ。これは、自分の中の劣等感を軽減・払拭することにも繋がる。また、美を傷つけることは往々にしてうしろめたさを伴う。この背徳感が性的興奮と結びつくということは想像に難くない。
さらには、自分の体液を相手にかけることで『マーキング』的な意味合いもあるのではないだろうかと考えられる。精液の匂いや色、跡を相手につけることで、支配的な欲求を満たし、「この女(あるいは男)は自分のモノだ」というアピールとそれによる安心感からなる精神的な充足を得るのではないかということが推察される。

■まとめ
以上より、『男性は支配・征服欲求を満たすためにかけたがる』という結論を以て、本論考を終了したいと思う。ただし、中にはAVを手本とし、それが正しいと信じて中身のない顔射に及ぼうという男性もいるので注意したい。
最後に、冒頭でも書いたが、顔射にはリスクも伴う。相手の同意を得ないまま自分の欲望のままにぶっかけると思わぬトラブルに発展する可能性があるため、男性諸兄には十分に注意していただきたい。
読者諸兄には相手との気持ちを合わせた上で、楽しい顔射ライフを送って頂きたい。

秋を喰い尽くせ。

読書の秋、スポーツの秋、芸術の秋、情緒の秋。
そういう訳でして、今秋は大変秋というものを満喫していまして、ぱたぱたと目まぐるしく動いております。今回は最近やった秋っぽいこと、というか、お出かけしたことをつらつら書いていく回にします。

・読書、執筆活動
大阪まで足を延ばして文フリ大阪に友人のサークルのお手伝いとして参加してきました。作品を売るのってやっぱり楽しい。自分の作品でないのが寂しかったですが、いいものですね。ここで本をちょこちょこと買って、未だ消化できていません。なんなら夏に買った分も消化できてません。自分の書き物がひと段落したらちょっとずつ、端っこから食べて行こう。
床をお借りした友人の寮が京都だったので、帰りにちょこちょこっと京都を観光してきました。清水寺へ行って、「清水の舞台から飛び降りるって言うけど意外と飛び降りても大丈夫そうだな……」などとよくわからない感想を得ました。花魁装束はいつか着てみたい。

・芸術鑑賞
目白にて、春画展を見てきました。予想に反し、ものすごい人。しかも男性グループは皆無で、ほとんどが女性2~3人のグループとカップルでした。ポップなものから目を奪われる美しいものまで様々で、なんとなく当時の性事情が窺えました。とりあえず、葛飾北斎マジ変態(褒めてる。おそらく大概の人にとってムラムラくるのはあんまりないので、純粋に芸術として楽しめるかと存じます。時間のある方は是非。

・音楽鑑賞
友人に誘われ、共通の友人の所属するビッグバンドのライブを見て参りました。めちゃくちゃカッコよかったり、面白い楽器使ってたりで稚拙な感想ですが素直に"すごい"の一語でした。どうやら私はリズム感を始めとした音楽的センスに乏しいようで、楽器はからきしだし、カラオケで採点しようものなら常に低得点です。かなしい。
惜しむらくは過去演奏したことがあると噂の"Fly me to the moon"が演奏されなかったこと。大好きなのに。

・頭脳戦
昔からカードゲームって好きなんですけど、大人になってある程度の財力と思考能力を持ってからやるとこういうのってハマっちゃうんですよね。そういう訳で、マジック・ザ・ギャザリングの10/2発売の新エキスパンション、『戦乱のゼンディカー』プレリリースイベントに参加しました。書きたいこといろいろあるんですけど、長いし興味ある人全然いないだろうから、聞いてくれる人は直接教えて下さい。嬉々として話します。

・お月見
先日は十五夜中秋の名月というやつで、さらにはスーパームーンだったとか。月見といった大層なものではなくて、霞みがかった朧な月を横浜のビルの谷間からちょっと見ただけだったのだけれど、とっても綺麗でした。次の日の月はなんだか大きく赫々として恐ろしかったけれど、それもまた良き。思うに、新月から満月に至る過程のどこをとっても月って綺麗ではないかな。満月はやっぱり特別なんだけど、一年の内一回くらいは"眉月の宵"とか"十六夜の晩"とかあってもいいんじゃないかなって思ったりする。

・美食探訪
美味しいお酒と美味しいご飯。友人宅でオールだったり、なじみの立飲みやだったり、行きつけのバーだったり大いに飲み食いしています。まあ、秋と言わず一年中そうなんですけど。だって美味しいんだもん。だから太るんだ。痩せろデブ。

こんなんで、この二週間ほどは何やかやと忙しくしておりました。残るはスポーツの秋!といったところなのですが、生憎予定がありません。このままでは太るばっかりです。タスケテ。何か体を動かすイベントがあれば是が非でも誘っていただきたい所存。頼むよ。まじで。
一先ずランニングでも始めてみようかなぁ。劇的に痩せたいのだ私は。それも労せず。矢張り、寄生虫ダイエットか(いつも言ってる。美酒と美食に溺れたい。嗚呼、嘆息。

まだ十月ということで、秋はしばらく続きます。私の感覚だと、十一月の半ばくらいまでかなぁ。それまでに一度くらいちゃんと運動したいものです。ランニングを始めるとしたら、今度こそ続きますように。では。

シカイ カスム ユメウツツ。

目が痒いんですよ。一月くらいずっと。
伸ばしっぱなしにしていて前髪が大分長かったので、それはもう口許に届く程度には長かったので、そいつが目に刺さって痒いのだと思ったんですね。で、先日切ってきました。髪を。そうしましたら、多少よくはなりましたけれども今まで寝る前だけ「めっちゃ痒い!つらい!」という感じだったものが、慢性的に「地味に痒い……つらぴよ……」という方向にシフトしただけで何と言いますか、寝る前の痒みを一日に分散させたようなような恰好になってしまい、非常に不快です。
何故こんなに痒いのでしょうか。自分なりに理由を考えてみました。


①アレルギー性結膜炎
単純にアレルギーなのではないか説。でもこの時期花粉と言っても今までの経験上さして思い当たるものはないし、ペット飼ってたりもしないし。となると、ホコリでしょうか、矢張り。お部屋掃除して換気したらよくなるかなぁ。嗚呼、億劫だ。

②ドライアイ
目ン玉渇いてるんじゃないか説。パソコン使う仕事してますしね。スマホゲームなんかもよくやりますしね。眼鏡あってないしね。書き出してみると目を酷使している生活してんだなぁって感じです。眼鏡に関しては作り直さなくては。今日辺り帰りしなに寄ってみようかな、横浜Zoff

③虫刺され
蚊に喰われちゃった説。痒いと言えばこれですね。最近涼しくなってきてあんまり見なくなったとは言え、まだまだ油断なりません。ムヒ塗らないとね。目に。ムヒを。はァ?
真面目な話、ダニなら在り得るかも知れません。顔ダニやまつ毛ダニって意外と結構な割合で潜伏しているのだそうで、全然ない話じゃないみたいです。別に化粧するわけでもないし、他に症状が出てる訳じゃない(顔が赤らむ、まつ毛が抜けるなど)からそんなに心配していないけれど……うげぇ、想像したくないなぁ。

④心の渇きは目の渇き
心が渇いているから、それが目に現れちゃってる説。もう目を閉じてしまおう。でもそれは心が渇いているからじゃない。何も見たくないからでもない。そう、ただ目が渇いているだけ……それだけなのよ……。
なんだそれ。少女マンガかよ。モーモールルギャバンかよ。決して別れ話のせいじゃない、眼が痛いだけ~コンタクト。っていうか目閉じても痒いわ。却下。

⑤大宇宙の意思
人間が知覚出来ない超自然的思念体の意思による目の痒み説。これは啓示か警告か。人類の存亡は今、一人の人間の両目にかかっている。襲い来る地震、迫りくる台風、そしてこの痒みの正体とは。圧倒的スケールで描かれる目の痒みを巡るSF超大作。2016年秋、公開決定!
……見たくない。すっごい見たくない。ゼッタイ駄作だよ。B級の香りがぷんぷんするよ。「なんか逆に見たいかも?」ってなるタイプのやつだよ絶対。しかし大宇宙の意思とやらも迷惑なやつだな。なんで私の目なんだ。もっとそれっぽい人の目を痒くしてやれよ。石油掘削員のおっさんとか。


いろいろと考えてみましたが、やっぱりドライアイなのかなって思います。耐えられないほどではないというのがまた厄介で、地味~~~に痒いのが続くのが厭なところ。
早めに眼鏡作り直して、薬局でドライアイに効く目薬を買うのがよさそう。アイボンとかもあんまりやり過ぎるとよくないって言いますしね。目指せすっきりおめめちゃん。

サイテーの人。


習慣が溢れている

(兎のぬいぐるみだけが救いやも知れない)



改めてお久しぶりです。情緒です。
相も変わらず鬱屈とした日々を過ごしています。
欲しいものは増える一方で
食欲は増加の一途をたどり
ありとあらゆる欲に塗れて転覆寸前。
はて、こんな毎日を如何しましょう。

毎夜のお酒は美味しいです。
近頃では毎日とはいかなくなりましたが、
夜毎違う貌の街に相手をしてもらって
それは屹度幸せなのでしょう。

甘いお菓子が食べたいと
ここ数日思い続けているのに
どうにも叶いません。
自分の意思で買えばいいはずだのに
いざその時になってみると
とんと甘味を買うと云う使命を
忘れてしまっているのです。
誰か僕に巧いお菓子を。


×


雨が止みません。
雨は特段嫌いではないし、
晴れたって晴れやしないのだけれど、
それにしたってお外を歩くには
いささか不自由します。
傘を持ち歩くのは嫌いです。
お家の中からそっと眺むるこそ
情緒というものです。

秋雨の所為か気温は上がらず、
私の身体はそういうところに許り迎合、
近頃どうにも朝に弱いです。
私はもういつまでもいつまでも
眠っていたいというのに
世間様はそれをお赦しになりません。
嗚呼、哀れな情緒。
噫!憫れな情緒!



お仕事で細かい手違いを
たくさんしてしまいました。
ごめんなさい、ごめんなさい。
この頃は本当に駄目でして、
注意力が散漫なのか、
はたまたもっと別に理由があるのか、
小さなミスが多くて困ります。
困りますと言ったって自らの話ですが。

いっそ辞めてしまおうかという気にも
ならいではありませんが、
路頭に迷いそうな気がしてなりません。
それならそれでいいかしらん。
アルバイトなどしながら、
ゆるゆると生きて行こうかしらん。
それも、いいなぁ。



なんともはや、支離滅裂。
さすがに後厄も終盤といった体の
毎日ではございますが、
日々千鳥足で邁進中でございます。
泣き言ばかり申しますが、
ふらりふらりと生きて参ります。

それでは。

 

アンハッピーバースデイ・輪廻

六月十四日は誕生日です。

と言っても誕生日にはあまりいい思い出がなかったりする。いつしか期待することもやめてしまった。唯一最高だったのは一昨年の誕生日。当時通っていたワインバルで、当時付き合っていた恋人とちょっとしたコースの料理を食べてプレゼントには大好きなバカラのワイングラスをもらった。何より、私に内緒で準備してお祝いしてくれたのが、とても嬉しかった。あの頃は与えてばかりいた気でいたけれど、そういう時があったことは忘れてはいけないよなぁと思う(比率としては0.5:9.5みたいな感じだったけれど)。その数日遅れで友人からもプレゼントをもらったのもよかった。

あとの思い出はろくなものがない。実家にいた頃は一日違いの弟と抱き合わせだったし、一昨年以外はちょうどその頃を外して恋人いなかったし。なによ。ひどいわ、もう。
ちなみに去年の誕生日は、血みどろ恋愛譚をこれでもかというほど繰り広げた相手の家を出た一週間後で、実家に帰って一人でワインを赤白赤の三本、缶酒を四本だか五本、ウイスキーを三杯空けたため、朝気が付くと弟の布団で寝ゲロしてた(我が親愛なる弟よ、許せ)。ある意味サイコーである。サイコーにサイテーだ。それ以来実家に帰って酒を飲むと妹が不安げな貌をするようになった。頼む!その目をやめてくれ!

しかし毎度々々私が誕生日の度に不幸に見舞われることに対して、心当たりがないわけでもない。思うに、これは報いである。
私はタイミングの悪い子供であった。家の中でイベントごと、それは誰かの誕生日だったり酉の市の日だったりが近づくたびにひどく怒られるようなことをしでかしていた。今となっては全部が私のせいではなかったし、わりと当たられていた部分も多かったことがわかったのだけれど、兎にも角にも私の存在から起因することもまた事実ではあった。当然家の中の空気は悪い。その頃の報いが今飛んできているのではないかと私は思う。なんたることだ。

そんなこんなで、毎年誕生日というものが苦手だ。祝われるとどんな顔をしていいかわからなくなる。笑えばいいと思うよって言ってよシンジ君。

サボテン男とイネ女

久々にブログでも書こうかと思ったが、日常あったことで書くようなことはみんな大分日が経ってしまったので私の浅はかな恋愛持論でも語ろうかと思う。
ちなみに、サボテン男とイネ女と銘打ってはいるが実際の所まるっきり男女逆転しても言えることである。

 

こんな経験はないだろうか。付き合う前は相手の方からアプローチをかけられ、そんな態度に自分も惚れて付き合いだした恋人。しかしこちらが愛情を注げば注ぐほどダメ人間化し、百年の恋も醒めてしまっていざ別れようとすると追いすがり、甘い言葉や痛いところを巧みに突いてきた結果再燃するが、しばらくするとまた同じことを繰り返してしまう……。

その恋人、サボテン系である。

サボテンは乾燥地帯に育つ植物である。少量の水で生きていける反面、水をやり過ぎると根腐れする欠点を持つ。サボテン系がダメ人間化する原因は、まさしく根腐れである。サボテン系は愛情を注がれれば注がれるほどそれに甘んじて、その関係に対してやる気をなくしていく。「なんでもこの人がしてくれるからいいや」という具合である。やる気をなくすだけならいいが、「何をしても離れないだろう」という慢心からだんだんと横柄になっていくパターンもある。恋人は愛されたいが為、棘に指を刺されながらもっと愛情を注ぎ、やがて疲れてしまって別れを考えるようになる。こうなるとサボテン系は逆に勢いを取り戻し、時に花を咲かし、また固い棘でこちらの痛いところを突き、巧みに愛情を取り戻す。が、結局は一度腐った根。しばらくしたらまた元の根腐れ状態に逆戻りである。追いかけられるより追いかける方が燃えるタイプとも言える。

サボテン系との付き合い方は大別して以下に分かれる。
まず、根腐れした恋人の仕打ちにひたすら耐える付き合い方。一種の共依存関係だ。これは簡単だが、全く生産性がない。「どうしても好きだから別れられない……」という場合に陥りがち。破滅に向かう可能性は極めて高い。
次に、近づいては離れを繰り返しながら相手が変わる方向を目指す付き合い方。これが一番建設的かもしれない。しかし、精神力にせよ体力にせよかなり消耗するので、どこかで崩壊する危険性をはらんでいる。
最期に、もうこれを機に駆け引きを楽しんじゃう付き合い方。根腐れしない程度にうまくコントロールして、惚れた腫れたの微妙なカーチェイスを繰り広げる。楽しい内はいいが、いずれ飽きるなり疲れるなりしそうだ。これが出来る人ならすっぱり切るくらい造作ないだろうけれど。

つまり何が言いたいかというと、「本気でサボテン系と付き合うと相当キツいから自分をきちんと保ちつつ、どこかでしっかり見切りをつける覚悟がないと危ないよ」、というのがサボテン系と付き合う上での総括だ。

 

さて、一方でサボテン系男女に対局を成すのが、イネ系男女である。
イネは潤沢な水を湛えた田んぼで育つ。彼らは愛情を注げば注ぐほどよく育つのだ。彼ら彼女らは仕事でも私生活でも恋人がいない時期よりも飛躍的なパフォーマンスを見せ、恋人たるあなたもまた稲作のサイクルごとに大きな恵みを授かり、穏やかな日々を過ごせるだろう。おめでとう!
……と、これだけ聞けばどう考えてもサボテン系と同じ土俵に立たせるのも申し訳ないくらいなのだが、イネ系にも当然欠点がある。それは、一度あげた水位を下げられない点だ。イネ系の人は総じてまじめでデリケートな傾向が強い。そのため些細なことで不安になったり、悪くすると依存状態で常に愛情を感じた状態でいないといられなくなってしまう。一度不安になったイネ系は歯止めを失い、従前以上の愛情を求めてしまう。まさに田植えを終えた田んぼのごとき泥沼である。

この潤沢な愛情を受けて伸びる反面その愛情を無尽蔵に求めてしまう、というイネ系の特徴は自己肯定感の不足・欠如に拠るものだと思われる。平たく言えば自分に自信がないタイプの人が多いと言える。そのため、自己肯定感の象徴とも言える愛情を際限なく求めてしまう傾向にある。

イネ系と長く円満な恋人関係・夫婦関係を築くには、多大な愛情を注ぐと言うよりも、この自己肯定感を高めてやる必要がある。そうでないと、サボテン系とは違った形で共依存に陥ってしまうからだ。
ただ甘やかし、耽溺して溺愛するのはさほど難しくはないが、他人の自己肯定感を向上させるのはただ単純に愛情を注げばいいという訳にはいかない。相手の中に自己肯定感を高める装置を作ってやらなければならないからだ。逆にこれがうまくいけば、末永く良好な関係を築けるのではないかと思う。

 

いかがだったろうか。心当たりのある方も少なからずいるのでは。
今回の記事でサボテン系、イネ系について詳しく解説したが、これにより読者諸兄に「世の中いろんな人がいるねー。怖いねー」くらいの感想を与えられたら幸いである。
最後にこれはあくまで私情緒一個人の見解であることをお断わりしておく。

酔余の旅路。

目が覚めるとそこはどうやら終点であるらしかった。寝ぼけと酔いでよくわからないまま私は電車を待とうとしたが、駅員に止められてしまった。曰く、今日の電車はもう終わりらしい。ああ、やってしまったな、と思いながら携帯の時計を確認すると、0:48と表示されている。この時間ならJRはまだ動いているはずだ。最寄駅へは行けないが、ここよりは近いところまで行けるだろう。そう思い一度神奈川新町の駅を出かけたものの、また構内へ戻って連絡通路へ向かった。が、今まさに駅員がシャッターを下ろしたところだそうで、そちらへ抜けることは出来なかった。面白くない気分だ。仕方なしに駅を出て、私はタクシー待ちの人々を横目に横浜方面へ歩き出すのだった。
そういえば、この辺りは歩いたことがなかった。整った道の両脇には居酒屋らしき店が並び、道の両側に等間隔で赤い提灯が灯っている。ある種幻想的とも言えるその光景に、うすら寒さを覚えながら私はその道を歩き出し、はたと立ち止まった。いや、待てよ。本当にこんな道はあったろうか。いつも通過するか乗り換えるかしかない駅だと言っても、ホームは低い位置にあるのだからさすがにこんな場所があればわかるだろうし、一度は行ってみたいと思うに違いない。何か違和感を感じる。なんだ。なんだ。と、ここで私は携帯を取り出した。地図アプリを起動する。そうだ。こんな時こそ文明の利器を有効に活用しよう。位置情報が読み込まれ、現在地が表示された。そう、ここは。

"金沢文庫駅"

思わず笑ってしまった。だんだんと頭が覚醒してくる。冷静に考えると神奈川新町駅で乗り換えて眠り込んだはずなのに、ここが神奈川新町駅であろうはずがない。そもそもJRの連絡口があるのは隣の仲木戸駅だ。
そして蘇る悪夢。あれはいつだったろうか。私は同じように終電を逃し、ここ、金沢文庫駅からタクシーに乗ったのだ。家に着いた時に請求された額はたしか六千円だかもう少しだかだったと思う。駄目だ。この絶望的にお金がない今、タクシーは使えない。となると選択肢は二つ。近場の店で朝まで時間を潰すか、歩いて帰るかしかない。歩こう。私はそう決意した。
地図アプリに住所を入力すると、二時間四十分と出た。距離にして約12.7km。阿呆か。いや阿呆は私だ。駄目元でその近辺に住んでいる友人に連絡を入れ、歩き出した。返信はその日の昼過ぎまでなかった。

国道沿いをしばらく行くと、地図アプリからその道を外れるように指示が出た。が、その先はどう見ても住宅街である。街灯もまばらで、とにかく暗い。位置情報を確認しながら私はその道を歩き出した。この辺りは横浜の例に漏れず、山を切り崩して街を形成しているらしく、坂が多い。というかもうこれ山じゃないか。頭上には黒々とした木々が生い茂り、舗装されているもののどう見ても私道、それも歩行者しか通れない登りの道をしばらく行くと、再び国道に出た。やや安堵しつつも、先は長い。足を緩めることなく私は歩き続けた。
また、道を外れるように指示が出た。先ほどよりも更に細い道である。そして、やはり坂。道はどんどん暗くなるが、あまり恐怖は感じない。地図アプリを覗きつつずんずん進んでいると、ふと示されている道を外れてしまった。あれ、おかしいなと思って少し戻る。が、曲がるように指示されている地点に立っても道なんてない。怪訝に思ってよく目を凝らす。初めに見えたのは、闇だった。木々の間にぽっかりと闇が抜けている。携帯の光を当てると、その全貌が見えた。
それは、階段だった。古い神社に続くような、石段のような階段。それが水に濡れて黒々と携帯の光を照り返している。いや、濡れているのではない。ごく薄い水の膜が出来ているのだ。それは、せせらぎだった。耳を澄ませなければわからないほどの小さな音を立ててそのごく浅い川は石段の上を流れていた。そして私は思った。「え、ここ通ンの……!?」と。

そこからどこか近未来的な雰囲気の住宅街を抜け、舗装された道路を歩き、山を越え、ようやく見覚えのある商店街の端にたどり着いた。子供のころによく自転車を飛ばした道を歩いて帰路を辿る。酒は完全に抜けており、頭が痛む。歩きすぎて足も棒のようだ。幼い時分の私はよもや自らがこんな時間にぼろきれのようになって歩くとは思ってもみなかったろう。そんなことを考えながらようやく家にたどり着き、私は早々に布団に潜り込んで眠った。もう二度と寝過ごさないという決意と、また同じことが起こるだろうという確信を胸に抱いて。