上手じゃないの。

 
誰かを愛するということを、正直なところよくわかっていない。無償の愛、見返りを求めない愛情などとよく聞くけれど、それが真に愛であるなら、この世に存在しないのではなかろうか。幽霊とか妖怪みたいに、誰も見たことがないものでもその存在がまことしやかに語られるのだから、あり得ない話ではない。ないものをここにないからという理由で「ない」と証明することは出来ないけれど、やっぱりちょっと信じがたい。

私は、四年の間一人の人を愛し続けていた。つもりだった。けれど、結局最後はだめになってしまった。体力的、精神的、金銭的、あらゆる面で限界を感じ、一度あの人から離れている間に、あの人は別に恋人を作っていた。それでもいいと思って(すぐ別れるとも言っていたし)二番目でもいいからって一緒にいたけれど、結局私はあの人の一番になりたかったのだと思う。散々な終わり方だった。おかげさまで手元に残ったのは大量のカードの支払と空虚と弱り切ったこの心と体だけ。なんて素晴らしい!いやそれはいいのだけれど。本題から外れる。

あの人もまた私を愛していると言ってくれた。その言葉をずっと信じていたのだけれど、今思えばあの人が愛していたのは私の目に映るあの人自身だったのではないかな、と。自分を一番きれいに映してくれる、素敵な鏡が私だった。ついでに身の回りの世話もやってくれるし、寝る前には絵本まで読み聞かせてくれる。こんな素晴らしい鏡が他にあったろうか。それで、近くに置いていただけなのではないかな、と。

他にもいろんなことがあって、それはあの人とのこともそうだし、それ以外のところでも本当にいろんなことがあって、愛というものがほとほとわからなくなってしまった。思うに、これは一種の宗教だ。愛という得体の知れないものをみんなで崇拝し、それを内包、あるいは享受しようと努力している。あな恐ろしいことである。

もっと限定的な話をしよう。要するに、私はこんな風に卑屈な思考を獲得してしまったがために、人から愛されるということもよくわからないのだ。「好きです」「愛しています」と言われたって、一体それがどこまで本気なのか、また何をもって愛していると言うのか、そもそも私に人から好かれる要素なんてないだろ!いい加減にしろ!という気分になる。いい子だから郷に帰ってもっといい人をお探しよ、とも思う。お嬢さん、こんなやつに構っている時間はないぜ。

ところが私は私で卑怯者だ。そこは笑顔のお澄まし面をぶら下げてこう言う。「ありがとう」。この言葉は使いどころによっては至極恐ろしい。肯定とも否定とも取れる。私が好きな人にこう返されたら九分九厘傷つく。それはもう傷つく。悲しくなる。帰ってからこっそり泣く。が、それでもこう言う。そうして、次の食事の予定を立てるのだ。相手が自分に飽きるまでは関係を続けていく。愛されることも愛することもとても恐ろしい、が、愛されないことも愛せないことも均しくまた恐ろしいから。一人では寂しいので、その寂しさを半分持ってもらう。ちょうど玄関をたたいた人に、どう考えても要らないようなお土産を押し付ける。明確な線引きはしない。始まりがないので終わりがない。自分が身を置きすぎることさえなければ、相手が去っていったとしてもそれほど大きなダメージではない。

そういう訳で、どうにか中庸を取って生きている。愛しすぎないように、愛され過ぎないように。また、嫌われないように、嫌いにならないように。何度も言うけれど、愛情が恐ろしい。それはよくわからないからということもあるけれど、単純に傷つくのが怖いというだけでもある。愛情は怖い。これが何より私を狂わせる。上手に息が出来なくなり、愛しい相手がすべての行動の中心になってしまう。穏やかに深く誰かを想えたらいいのにな。どうして上手に出来ないのだろう。

まとまりないな。いろいろと言っても、依りかかられたら支えたくなって繰り返す内にダメージが肥大していくのが常で、こればかりはどうしようもないのだけれど。いいですよ、私は二番目の綺麗な鏡かアクセサリーで。生きるのも恋するのも上手じゃないの。可愛いでしょう。あーあ。