みそひともじに魅せられて~俵万智を紐解く~

◆はじめに

俵万智、という文筆家を存じているだろうか。
彼女を知らなくても、『サラダ記念日』という言葉を聞いたことはあるのではないだろうか。
これは、発表当時斬新な手法と読み手の共感をがっちり掴む表現で社会現象まで巻き起こした俵万智氏の短歌、

"「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日"

に出てくるフレーズで、同短歌が収録されている氏の歌集タイトルにもなっている。(ちなみにサラダ記念日は現在日本の記念日として認定されており、「○○記念日」という言い方を一般に拡げたきっかけにもなっている)
俵万智氏をご存知の方は歌人であるイメージが最も強いものと思われるが、実際には氏はエッセイストとしての顔もお持ちであり、また小説家でもあり、はたまた翻訳家でもある。そのため文筆家と書かせて頂いた。
今回は、その最も有名な側面である歌人としての俵万智の魅力を、私なりに紹介したいと思う。


◆感情表現の巧みさ
まずはもっとも有名な現代短歌と言っても過言ではない、サラダ記念日を細かく見ていきたいと思う。

"「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日"
この歌は作ったサラダを「君」に褒められた喜びを爽やかに、また女性らしい茶目っ気を添えて述べた一首ということが伝わるが、丁寧に紐解くことで、よりその感情表現の巧みさが露わになっていく。
まず上の句『「この味がいいね」と君が言ったから』。「この味はいい」でも「この味もいい」でもなく、「この味"が"いい」としているところに注目して欲しい。そこから読み取れるのは、このサラダが普段と変わらない味であるということだ。夫婦の食卓のワンシーンにも感じるし、恋人が家に遊びに来ての一言とも取れる。「君がいつも作ってくれるこの味が僕は好きだな」という賞賛と感謝の色をこの"が"は含んでいる。また、その後に『君が言ったから』と"が"を重ねることで語感を良くし、お互いに想い合っているという感を強めている。仮に「君も言ったから」「君は言ったから」と続いていれば、ドロっとした印象に様変わりすることは明白である。「「この味がいいね」と君が言った」からこそ、新鮮なキャベツのようにかろやかに甘い印象を投げかけるに至り、またこの歌がたくさんの人の共感を集めることとなったのだろう。
続いて下の句『七月六日はサラダ記念日』に注目したい。これを単体で見た時、なぜ七月六日なのだろうと感じないだろうか。なぜ四月七日や十月四日ではなく七月の六日でなければならなかったのか。答えは、『「この味がいいね」と君が言ったから』である。……何を当たり前のことを、という顔をしないで欲しい。今でこそなんでもない日を「○○記念日」として恋人や友人同士で祝うのはよくあることだが、この短歌の発表当時は今一つ聞きなれない斬新な表現であったという。「サラダの味を褒めてもらった」という他人からするとなんでもないようなことで記念日まで作ってしまうほどこの歌の主人公は嬉しかったのだ。加えて、この記念日という表現には言外に『二人だけの』あるいは『自分だけの』という意味をはらんでいる。仮に自分だけの、と仮定してみると「君が褒めてくれた今日という日は私だけの記念日にしよう」と胸の内でこっそり思っている様は幸せと愛らしさに溢れ、より味わい深く感じるのではないだろうか。
以上を踏まえた上での私の解釈としては『いつも通りのサラダを「君が作ってくれるこの味が僕は好きだ」と言ってくれたから、なんでもない七月六日が特別な日に変わったから、記念日と呼んでずっと覚えておきたいな』といったところだろう。女性らしい可愛らしさとおかしみにあふれた一首だ。

俵万智氏の作品の中で、このようなワンシーンを切り取り、言外に感情を表現した歌は多い。

"砂浜のランチついに手つかずの卵サンドが気になっている"
"「クロッカスが咲きました」という書きだしでふいに手紙を書きたくなりぬ"
"さりげなく家族のことは省かれて語られてゆく君の一日"

どれも嬉しい、悲しい、寂しいなどといった感情を表す言葉は含まれてはいない。しかし、三十一音の外にある感情のなんたるかは容易に想像させ得る巧みさが、氏の短歌には多く見られる。読んだ瞬間に感じる感情の海の、もっと深いところまで潜って浸るのも楽しみ方のひとつだ。
この項の趣旨とちょっと外れるが、『チョコレート革命』に収録された一首、

"焼き肉とグラタンが好きという少女よ私はあなたのお父さんが好き"

という短歌は潜ってみると嫉妬、愉悦、うしろめたさ、寂寞といった薄らぐらい感情の渦に飲み込まれるので、一度肴に酒を飲むことをおすすめする。


◆卓越した表現技法
高等学校での国語教師の経験も持つ俵万智氏であるが、国語的表現技法という面で見ても彼女の詠む短歌はずば抜けたものがある。
中でもそれを感じることが出来るのがこれだ。

"「寒いね」と話しかければ「寒いね」と答える人のいるあたたかさ"

細かく見ていこう。
まず、上の句において「寒いね」「寒いね」と繰り返される反復表現。これにより、いかに寒い日であるかと言う感を強めている。そして下の句で用いられる体言止め。"あたたかさ"で終わることで余韻を残し、また口にしたときのリズム感を整えている。
続いて全体を通して見た時の対比表現。"寒い"と"あたたかさ"、"話しかけ"ると"答える"。これにより、冷え切った日でもこうして「寒いね」と言い合える人間のいるあたたかさを強調している。細かいところではあたたかさにかかる修飾語の句またがりや、"あたたかさ"とあえて平仮名で書くことでやわらかい表現にしているところなど、この一首がかなり技巧派であることがわかる。
以上を踏まえた上での解釈は『身も心も冷え切ってしまうような厳しい寒さにあって、「寒いね」と話しかけるとそのまま返してくれるような相手がいることはあたたかく、幸せであることだ』といった具合だ。

このように技法が優れていると感じるのは他に

"思いきり愛されたくて駆けてゆく六月、サンダル、あじさいの花"
"潮風に君のにおいがふいに舞う 抱き寄せられて貝殻になる"
"なんでもない会話なんでもない笑顔なんでもないからふるさとが好き"

などがある。どんな表現が使われているのだろう、という切り口で作品をほどいていくのも面白い味わい方かもしれない。


◆実際に感じているような情景の表現
氏の短歌は共感性が高いということは既に述べたが、その場その場のシーンの表現もまた括目すべきものがある。これについては個人の想像や思考によって大きく左右されてしまうものもあるが、想像を刺激し、読んですぐにまるでその場にいるかのような、その光景を目にしているかのような感覚を起こさせるものが氏の短歌には多くある。

"地ビールの泡(バブル)やさしき秋の夜ひゃくねんたったらだあれもいない"
これは一種の侘しさをコミカルに表現した一首だが、これを読んだとき、マンションのベランダで街の明かりを眺めながら缶ビールを傾ける光景が目に浮かんできた。人によっては立ち飲み屋の雑踏の中でのシーンだったり、好きだけど一緒になってはくれなそうな相手との一コマだったりすると思う。個人個人の持つ想像力に強く訴えかける一首だ。

また、歌集『チョコレート革命』における生々しさも必見だ。高校時代、初めて『チョコレート革命』を開いた時、読んでいるだけで後ろめたい気分にさせられたものだった。
"妻という安易ねたまし春の日のたとえば墓参に連れ添うことの"
今頃は彼は家族と墓参りだろうかと考えながら部屋で鬱屈とした感情を抱えているようなシーンだろうか。生々しい。いっそ毒々しい。この句の意訳をすると、『たとえばうららかな春の日、彼の墓参に連れ添うようなことが安々と出来てしまう妻という立場が妬ましい』となる。さらには安易に妻と言う立場に収まっているお前がうらめしいというようなおどろおどろしい感情が潜んでいるのも受け取れる。
『チョコレート革命』は全体として不倫がテーマとなっている。実は、"地ビールの~"も『チョコレート革命』に収録された一首である。そういった前提で見ると……また違った見方に変わるのではないだろうか。


◆随所に見られる刺し殺す表現
最後に、『サラダ記念日』によって爽やかなイメージのある俵万智氏であるが、油断していると唐突に刺し殺されることがあるのをご忠告しておく。これは私の主観でしかないが、固い棒で思い切りブン殴られるような、鋭利な刃物で心をエグられるようなものが中には存在する。それらをいくつか紹介して、筆を置こうと思う。

"愛することが追いつめることになってゆくバスルームから星が見えるよ"
上の句のセンセーショナルな書き出しと、下の句のファンタジーにも感じる結びの対比が鮮やかな一首だ。これを現実と捉えた時、バスルームから星なんか見えないだろうと思うかも知れない。おそらくこの星とは天井にはねた水滴か、まぶたの裏の光景だと推測される。それを眺めながら"愛することが追いつめることになってゆく"としみじみと考えているのだ。パッと見のファンシーさとはかけ離れた虚無感である。

"「勝ち負けの問題じゃない」と諭されぬ問題じゃないなら勝たせてほしい"
「じゃあ勝たせてよ。お前それ妻にも同じセリフ吐くのかよ」ってヤツ。そりゃそうだわ。実際にこれを言われている場面を想像したくない一首。想像したが最後グサっと刺さって抜けなくなる。そして読んだ以上想像せずにはいられない。

"愛された記憶はどこか透明でいつでも一人いつだって一人"
愛されている内は愛されているのだけれど、それが思い出に変わった瞬間に境界線が曖昧になって、透明に変わっていく。残るのはいつだって孤独だ。常にある寂しさを表現した一首と言えよう。"いつでも"、"いつだって"と重ねるところがまた孤独をあおる。

 

以上、いくつかの視点で俵万智氏の短歌について筆を走らせてみた。これを読んだあなたが明日、本屋に行って氏の歌集を手に取ることを切に願う。いつか俵万智の短歌を味わう会を催したい。
近頃めっきりと寒くなったので、皆様におかれましてはどうか体に気を付けて。

それでは。

 

俵万智氏の公式HP→http://gtpweb.net/twr/index.htm
紹介した短歌の引用元→http://gtpweb.net/twr/sakuhin.htm