嫌いについて。

気付けば前回から随分時間が経ち、歳を取ったり職が変わったりしていました。こういう時いつも思うのですが、20代あっという間すぎやしませんか。老いさらばえてもアイドルでいたい〜Ah〜(アイドルじゃない

 

さて、27歳になった訳ですが、この歳になってもまだ「嫌いな人が好きなものは好きになれない」という子供じみた拘泥から抜け出せずにいる私です。坊主憎けりゃ袈裟まで憎いとはよく言ったもので、嫌いなアイツが好きな曲を聞いたらその嫌いなアイツの顔がちらついてムカッ腹が立ってくるし、苦手なあの人の好きな映画なら見る前から苦手な気がして見る気もしない。
しかしながら嫌いになるのもエネルギーが要るというのも現実で、誰かを好きになるのと同様誰かを嫌いになることも体力が要って容易にはいかない20代後半。女子高生じゃあるまいし、あの子嫌い、その子もイヤ、なんて言ってられないわけです。女子高生マジでタフ。増して、誰かを嫌いで居続けるなんて体力の無駄だし気分も悪いしいいことなしというものですから、無意識のうちにどうでも良いという方向へ意識をシフトする20代後半。

 

突然ですが、私は矢沢永吉が嫌いです。毎朝出勤時に近道で日産のショールーム内を通るのですが、バカでかいディスプレイに大写しになった矢沢永吉氏が音量設定を間違えたとしか思えないスピーカーで「やっちゃえ、NISSAN」などと言っているのを聞くと鳥肌が立ちます。いい加減隠居してくれ、安室奈美恵もマイクを置いたのだから。
どうしてこんなに嫌いなのかと自分自身でも思うのですが、そこにはどうやら父親が関係しているようだというのが最近わかってきました。
幼少期、私をしつける時に殴る、怒鳴る以外の選択肢を持たなかった父親矢沢永吉氏の大ファンです。未だに毎年ライブに行くようです。ある時、私は何もしていないのに呼び出されて矢沢永吉氏のラジオの録音を聞かされ、彼が何もないところから成り上がって行ったクソどうでもいい(ファンの方ごめんなさい)エピソードを聞かされ、少しでも身を入れていない素ぶりを見せると怒鳴り付けられるという地獄のような時間をすごしましたことがありますが、それくらいのファンです。
その影響で立派にひねくれた私は父親はもちろん彼が大好きな矢沢永吉氏も嫌いです。

 

父親を嫌いだと認めるのには時間がかかりました。仮にも父親です。嫌いになってはいけない、嫌だと思う自分が悪いのだと随分悩みました。悩んだ私は、どうでも良い存在として位置付けたつもりでなんとか回避していたように思います。会うたびに嫌な気持ちに支配されましたが、それでも努めてニュートラルな状態に持ち込むよう努力しました。
私の中で父親を嫌いな人間として決定付けたのは、幼少期のしつけ方、育て方を間違ったかも知れないと父親の口から聞いた時です。なんて酷いことを言うのだと、私は本気で思いました。私が必死で言い聞かせて、意味があったこと、間違いではなかったこととして置いていたものを否定されたのです。その言葉は急速に私の虚構を破壊し、私の父親に対するヘイトを決定付けてくれました。
それからは穏やかでした。私は父親が嫌いで、それでいいのだと思うことが出来たから。その事実は私の心に一部、安寧をもたらしました。

 

随分話が逸れましたが、最終的に私が言いたいのは「嫌いなら嫌いで良い」ということです。他者を嫌うことは悪いことではなく、自分の精神を守るためにしばしば必要なことであると私は声を大にして言いたい。それが肉親であろうと別れた妻や夫であろうと関係ない、嫌いなら嫌いで良いし、それを口に出すことになんら罪はないのだと言いたい。
誰かを嫌うことはエネルギーを使うしいいことはないと前述しましたが、本気で嫌いな人間に対してはその事実を認めた方が随分と楽に生きられるということを私はこの一年以内でようやく知りました。
どうか、ろくでもない嫌うべき人間のためにこれ以上悩む人がいなくなりますように。

 

長い記事に付き合って頂き、ありがとうございました。次は好きについて書きたいなとわりと本気で思う秋の夜でございます。
お身体に気をつけて。それでは。