現実逃避のなれのはて。
このところずっと、すこぶる体調が悪い。どう悪いのかと言うと大袈裟に言うこともないのだけれど、まず疲れが取れず、常に体が重い。これがどうにもしんどい。眠いし。内臓系もやられている気がする。内部が疲れているというか、胃腸の具合がよくない。それから、鼻血が良く出る。どうやら右の鼻腔粘膜が弱っているらしい。強く鼻をかむとすぐに血が垂れてくる。おかげでティッシュで詰め物を作るのが上手になった。要らんわそんな技術。バカか。
そういう訳なので、最近の生活を見直して原因を探ろうと思う。
最近の生活。そういえば、昨年の九月くらいからタバコを吸い始めたな。量は二日で一箱くらい。多くはないけれど少なくもない気がする。外でお酒を飲むと爆発的に増えるのが珠に瑕である。これについては減煙することが本日決定し、家では吸わないことにしたのでまあ、よし。動機が不純だがなんでもいい。いいのだ。
よく考えるとこのところお酒を飲み過ぎである。現実がつらすぎて逃げまくっている内にこんなところに来てしまった。まあ、好きだからという理由も多分にあるのだけれど。先日とうとう浦霞の一升瓶を購入してしまった。だって美味しいし安いのだもの。(こういう思考が駄目なのだということを私はそろそろ自覚するべきである)
外でも飲む。わりとしっかり飲む。酔うまで飲む。酒、飲まずにはいられない!一人で飲み歩くことが増えたおかげで行く先々に飲み仲間が出来た。性別も年齢もばらばらで、話していると楽しい。相乗効果でお酒を飲みに出る機会が増えるという寸法である。お金ェ……。
ああ、そういえば最近運動もあまりしていない。以前はランニングをしていたのだが、ちょっとごたごたしている間に途切れてしまい、そこから再開していない。嗚呼、筋トレだってしていたのに。このところ太り気味だし、再開しようかしらん。寒いけど。寒いけれども。それからスポーツのお誘いを受けたら積極的に参加しよう。うん、それがいいよ。誘ってくれる人なんてそういないけれど。これでいいのか情緒ちゃん24歳、冬。
休日の過ごし方にも難ありだ。このところは予定があるから良いが、そうでない限り家から出ない。ご飯を作ったりお風呂に入ったり、そういう何かしている時でなければひたすらお布団でぐでっとしている。不健康そのものである。携帯を見たりゲームをしたり携帯を見たり家事をしたり携帯を見たりお風呂に入ったり、なんだこれは。ほとんど携帯を見ているじゃないか。病気か私は。あ、病気か。
こうして考えると体調が悪いことに対して何ひとつとして疑問が浮かばない。なるべくしてなったという感しかない。平日のお酒は控えるのと共に家では煙草を吸わないようにしよう。あと可能な限り毎晩ランニングするのも再開しなくちゃ。このままでは太る一方である。いい加減まずい。目指せ魅惑の健康ボディ。とは言うものの、精神的不健康はどうにも拭えないので、お酒だけはなかなか減らせそうにはないなぁ。がんばろう。
日曜の午後の憂鬱。
紫煙の先の影に気づいて。
私がタバコを吸う時は、親指と中指で挟んで人差し指を添えるようにしてタバコを持つ。はっきり言おう。これはドラマ『MOZU』の西島秀俊扮する倉木尚武を意識してのことである。(ちなみに気分が荒んだ時には逆手にして親指と人差し指で持ち、映画『パーティ★モンスター』マイケル・アレグ役の際のマコーレー・カルキンがヤクを吸う時のスタイルで吸う)
未だ誰にも指摘されないが、あくまで私はこれを続けていく心づもりである。
かっこいいんです。西島秀俊。私がタバコを始めたのは去年の九月頃なのだけれど、ちょうどその少し前にやっていたドラマが『MOZU』であった。ドはまりしたのである。全体に重苦しいハードボイルドな雰囲気、映画に匹敵する画面の使い方や光とカメラ、印象的で特徴的な登場人物たち。中でも際立っていたのが主演、西島秀俊。手段を選ばず妻の死の真相を追い求める姿、言動の一つ一つがかっこいい。余談だが、このドラマを見て以来CMや他の作品で彼が明るい役を演じているのを見ると違和感を感じるようになった。
作中では度々タバコを吸うシーンがある。その時のタバコの吸い方がなかなかイカしていて、最初に述べた通りの吸い方をするのである。ほどなくしてタバコを吸うようになった私は今に至るまで大概この吸い方で通している。
誰か気づいてくれないものだろうか。身近でタバコを吸う人はMOZUを見ていないし、MOZUを見ている人はタバコを吸わない。遺憾でならない。あーあ、モノマネだって出来るのに。なんだったら細かすぎて伝わらないモノマネ選手権にだって出るのに。みんな観ようよ。DVD貸すから。そんなことを考えながらタバコを吸っていたら、職場の方にこう言われた。
「シャボン玉吸ってるみたいで可愛いね」
ハードボイルドへの道は遠い。いっそメルヘンである。
六発殴ってかまわないから。
ここ数年、てぶくろが欲しいと言い続けている。革製で黒くてぴたっとくる感じのかっこよろしいやつが欲しいのだけれど、別にコレ!というのがあるわけではなく、そんなイメージのてぶくろが欲しいと言うことをもう五年越しくらいで言い続けている。今のところどこを探してもイメージにはまるものは、ない。
そうは言っても、見つからないのは本気で探していないからという至極もっともな理由もある。と言うのは、私はてぶくろを買いたいのではなく、プレゼントされたいから。なぜプレゼントされたいのかと言うとそれはもうなんとなくとしか言えないけれど、とにかく私は何がなんでもてぶくろをプレゼントされたい。それも冬に(誕生日は六月なので、そんな時期にプレゼントされても喜べない)。なので寒くなってくると私はそれとなく周りの人にてぶくろが欲しい旨を拡散する。
冬にプレゼントと言えばクリスマス。クリスマスは毎年やってくるが、私にてぶくろをプレゼントしようという人はやってこない。というか、そもそもクリスマスプレゼント自体誰もくれない。もう少しみんな私に貢いでくれてもいいのではなかろうか。だめですか。だめでしょうね。そんなことよりてぶくろである。もう少しするとまた冬も終わってしまう。となれば、てぶくろが要らない季節がまた巡ってくるわけで、そうなれば私のてぶくろ欲しい熱も衰退してしまう。そうなる前に素敵な人に可愛らしい包みで以って、てぶくろを贈ってもらわなければならないのである。いねぇよそんなやつ。
プレゼント。贈り物。なんと甘美な響きであろうか。大人になるにつれ、もうすっかりもらう機会より贈る機会のほうが多くなってしまった。これが大人になるってことかしらん。物質的な幸せが欲しい訳ではないけれど、これはこれでわかりやすい形なのだから示してくれたらいいのに。いや待て。総合するに、お金や労力をかけてまで私に愛を示したいという人間がいないというだけなのでは。ああ、なんだか無駄に悲しくなってしまった。兎にも角にも、この冬もまた、私はてぶくろを持たないまま越すのであろう。
上手じゃないの。
誰かを愛するということを、正直なところよくわかっていない。無償の愛、見返りを求めない愛情などとよく聞くけれど、それが真に愛であるなら、この世に存在しないのではなかろうか。幽霊とか妖怪みたいに、誰も見たことがないものでもその存在がまことしやかに語られるのだから、あり得ない話ではない。ないものをここにないからという理由で「ない」と証明することは出来ないけれど、やっぱりちょっと信じがたい。
私は、四年の間一人の人を愛し続けていた。つもりだった。けれど、結局最後はだめになってしまった。体力的、精神的、金銭的、あらゆる面で限界を感じ、一度あの人から離れている間に、あの人は別に恋人を作っていた。それでもいいと思って(すぐ別れるとも言っていたし)二番目でもいいからって一緒にいたけれど、結局私はあの人の一番になりたかったのだと思う。散々な終わり方だった。おかげさまで手元に残ったのは大量のカードの支払と空虚と弱り切ったこの心と体だけ。なんて素晴らしい!いやそれはいいのだけれど。本題から外れる。
あの人もまた私を愛していると言ってくれた。その言葉をずっと信じていたのだけれど、今思えばあの人が愛していたのは私の目に映るあの人自身だったのではないかな、と。自分を一番きれいに映してくれる、素敵な鏡が私だった。ついでに身の回りの世話もやってくれるし、寝る前には絵本まで読み聞かせてくれる。こんな素晴らしい鏡が他にあったろうか。それで、近くに置いていただけなのではないかな、と。
他にもいろんなことがあって、それはあの人とのこともそうだし、それ以外のところでも本当にいろんなことがあって、愛というものがほとほとわからなくなってしまった。思うに、これは一種の宗教だ。愛という得体の知れないものをみんなで崇拝し、それを内包、あるいは享受しようと努力している。あな恐ろしいことである。
もっと限定的な話をしよう。要するに、私はこんな風に卑屈な思考を獲得してしまったがために、人から愛されるということもよくわからないのだ。「好きです」「愛しています」と言われたって、一体それがどこまで本気なのか、また何をもって愛していると言うのか、そもそも私に人から好かれる要素なんてないだろ!いい加減にしろ!という気分になる。いい子だから郷に帰ってもっといい人をお探しよ、とも思う。お嬢さん、こんなやつに構っている時間はないぜ。
ところが私は私で卑怯者だ。そこは笑顔のお澄まし面をぶら下げてこう言う。「ありがとう」。この言葉は使いどころによっては至極恐ろしい。肯定とも否定とも取れる。私が好きな人にこう返されたら九分九厘傷つく。それはもう傷つく。悲しくなる。帰ってからこっそり泣く。が、それでもこう言う。そうして、次の食事の予定を立てるのだ。相手が自分に飽きるまでは関係を続けていく。愛されることも愛することもとても恐ろしい、が、愛されないことも愛せないことも均しくまた恐ろしいから。一人では寂しいので、その寂しさを半分持ってもらう。ちょうど玄関をたたいた人に、どう考えても要らないようなお土産を押し付ける。明確な線引きはしない。始まりがないので終わりがない。自分が身を置きすぎることさえなければ、相手が去っていったとしてもそれほど大きなダメージではない。
そういう訳で、どうにか中庸を取って生きている。愛しすぎないように、愛され過ぎないように。また、嫌われないように、嫌いにならないように。何度も言うけれど、愛情が恐ろしい。それはよくわからないからということもあるけれど、単純に傷つくのが怖いというだけでもある。愛情は怖い。これが何より私を狂わせる。上手に息が出来なくなり、愛しい相手がすべての行動の中心になってしまう。穏やかに深く誰かを想えたらいいのにな。どうして上手に出来ないのだろう。
まとまりないな。いろいろと言っても、依りかかられたら支えたくなって繰り返す内にダメージが肥大していくのが常で、こればかりはどうしようもないのだけれど。いいですよ、私は二番目の綺麗な鏡かアクセサリーで。生きるのも恋するのも上手じゃないの。可愛いでしょう。あーあ。