精神的露出狂

ご無沙汰しております。
私です。情緒です。

気付けば年も明けており、それどころかもはや一月は過ぎ去って二月もあと僅かとなっております。怖い。時の速さが怖いわ、私。
そんな飛ぶように過ぎる毎日の中で、今年に入ってからちゃんと本を読むようになった私です。綿谷りさの「かわいそうだね?」から始まって、同「勝手にふるえてろ」、川上弘美「溺レる。」と来て、今は彩瀬まる「あのひとは蜘蛛を潰せない」を読んでいる。読む速さ云々を競うのは基本的にナンセンスだと思っているのだが、月2冊のペースならまずまずではないだろうか。主に電車の中や何かの待ち時間でしか読まないので、今遊んでいるスマホのゲームに飽きたらもっと読むスピードがあがるのではないかと思う。

……さて。
本を読むとき、私はあまりカバーをかけることをしないのだが、みなさんは外で読書をする際にカバーをかけるだろうか。書店で買った時に店員さんが巻いてくれる、書店の名前が入ったカバー。真っ白い無地の紙。透明なフィルム。市販の布製や革製のカバー。もちろんカバーをかけずに持ち歩く方や、作品のカバーをはずしたり、裏返したりして持ち歩く方もいることだろう。
最近はお洒落なカバーも多いし、柄にしても多様なものが販売されている。身の回りの小物類のテイストを揃えたい人だと、ブックカバーも近しい雰囲気のものを選ぶ場合も多い。

カバーをかける人には一定数、自分の読んでいる本を他人に知られたくないから、という理由を挙げる方もいるようだ。単純になんとなく恥ずかしい人、表紙が激しめな本を読んでいるからという人が多いが、中には自分の中をのぞかれているような気がして嫌だと感じる方もいるらしい。
彼らの曰く、思考・嗜好を構成するマテリアルとなる小説や読み物を知られることで、自分の脳内や精神のやわらかいところを知られてしまうことを恥ずかしいと感じ、人によっては恐れているのだそうだ。この思考回路は私もわからないではない。心の動きとして非常に興味深い部分もある。

ところで、人は、進化の過程で毛皮をなくし、代わりに服を着るようになった。生身の体を見られる羞恥から隠し、一番やわらかい部分に触れられる恐怖から守っている。謂わば安心をまとうと言ってもいいのかも知れない。
一方で、服をまとわないことを好む人間も、少数だがいる。彼らは羞恥心を煽られることを快感とし、身体をさらけ出すことに興奮する。

話を戻そう。精神とは興味深いことに、体の内にあるものでありながら外に顕現するものである。私室の調度やカバンの中身、口にする言葉や発する雰囲気などなど、人間の精神は様々に形を変えて身の回りに顕れている。
書籍はその中でもとくに雄弁に精神性を語るものの一つだ。本を選ぶとき、私たちは嗜好や思考に則ってそれを手にする。となれば、これにカバーをかけて(例えるなら服を着せて)他人の目に触れないように守ることは、当然の心の動きと言えるし、ある意味正当な進化の発露なのだと言えるかも知れない。
この論に則ると、私のような本にカバーをかけない人間は自らの精神の中枢に繋がる部分を晒し、それに対する羞恥を感じることのない精神的裸族と言えるのではないだろうか。いや、自分の読む本を人に認知されることを喜ばしいとさえ感じる私は精神的露出狂と言って差し支えないだろう。
だが、私はこれを恥じてはいない。むしろこれを読む諸兄にも、どんどん精神的恥部を露出していってもらいたい。語り合おうではないか、互いの恥部について。

このようなことをつらつらと書いてきたが、恐らく親愛なる聡き読者諸兄においては「何言ってんだコイツ」と思われることであろう。なんで読んでいる本を衆目に晒すことが精神的露出狂に繋がるんだ。更新しない間に情緒ぴの頭はバカになったんじゃなかろうか。その指摘は尤もである。だが、これだけは言わせてほしい。
透明フィルム派は、露出狂を越えるド変態である。