私と音源 (Disk2)

近頃めっきりライヴに行かなくなってしまった。積極的に情報を集めなくなったのと、ここ数か月の行動範囲が家と会社の往復に尽きていること、慢性的な資金難といった辺りがその原因であろうと思われる。行き帰りのターミナル駅というと横浜や川崎となるのだが、その近辺には私が好むようなちょうどいいハコがない。ジャズバーがあるのは知っているが、そちらにまで食指を伸ばしてしまうと収集がつかなくなりそうで恐ろしい。絶対ハマっちゃう。
とは言え、一番大きな問題は何かと言えば、やはり金銭的な部分だろう。お金がないばかりに趣味に時間を割けないとは、世知辛い話である。

前口上はこれくらいにして、前回の続きと行こう。
バンドミュージックや音楽アーティストとはほとんど無縁の生活を送った中学時代までであったが、その後どのように変化していくのか。


・高校生時代
高校一年の半ばまで矢張り音楽をほとんど聞かずに学校生活を送るが、中学の頃と比べて友人は増えていた。次男や友人たちからおすすめされるものを言われるがままに聞いている内、私の中に音楽への関心が萌芽し始めた。
ちなみにこの頃の次男は中学の頃のものとはまた別ベクトルで、HYやケツメイシDREAMS COME TRUE湘南乃風といったイカニモな感じの曲もよく聞いていたようである。貸してもらったもののケツメイシ以外は耳に合わなかったので、おとなしくBUMP OF CHICKENポルノグラフィティを聞いていた(湘南乃風に至ってはこっそり「パスタwwww」と思っていた)。この頃になると、カラオケに行く機会もちらほらと出てくる。BUMPとポルノとケツメの他には影山ヒロノブのButter-flyしか武器のなかった私なりによく奮戦していたと思う。一方で友人たちはDir en grayやL'ark~en~cielやJanne Da Arkといった古き良きヴィジュアル系にハマっていた。完全に一歩先である。これらの曲に対して当時の私は「なんか怖いしPV気持ち悪い」という感想しか持ち得ず、後に自分がV系にドハマりすることになるなどとは考えもしなかった。
さて、友人連中以外の部分で当時何が流行っていたかというと、大別してmihimaru-GTやnobodyknows+ORANGE RANGEといったアッパーチューン系統、いきものがかりポルノグラフィティケツメイシといったメジャーアーティスト系統、BUMP OF CHICKENASIAN KUNG-FU GENERATIONRADWIMPS、ELLE GURDENといったロキノンバンド系統などであった。
そんな中で基本的にはロキノンバンド系統やメジャーアーティスト系統をよく聞いていた私であったが、高校一年十月、爆発的大ヒットを記録したORANGE RANGE"花"を流行に乗ってうっかり買ってしまうこととなった。買ってしまうと言っても当時バイトをしていなかった私は何かの折りに母にせがんだので、厳密に言えば買ってはいないがこれがポケモンの8mmディスク以来初の、音楽を音楽としてちゃんと聞き始めてから初のCDの購入であった。謂わば、CD童貞の喪失である。ORANGE RANGEに筆おろしされたと言ってもいい。しばらくは気に入って聞いていたし、彼らの他の曲も併せて弟のおさがりであるCDウォークマンで聞いていた。が、その冬の終わりを待たずして突然気付いてしまう。「あれ、これ別に良くなくない?」と。めっちゃ流行ってるけどなにこれ。つまらん。っていうかうるさい薄っぺらい。こうなってくると最初に買ったCDがあの曲であることが腹立たしくなってくる。なんであんなもん買ってしまったんだ。最初に買った記念すべきCDがORANGE RANGEだなんて恥ずかしくて表を歩けない。なんという事だと嘆いた。そんなことを考えてモヤモヤしていたのもつかの間、置いておいたはずのCDが見つからないので母に「私のCDは?」と所在を尋ねると「あたしが買ったのだから、あたしのCDのところにあるよ」という返事が返ってきた。よかった。私、筆おろされてなかった。

二年生になると、更に幅広く音楽を聴き始めた。先ほども出てきたいきものがかり、ポルノ、バンプアジカン、ケツメの他にthe brilliant greenSEAMO福山雅治Mr.Childrenレミオロメン、etc.etc...。逆にいろいろ聞きすぎて思い入れが薄い。語れることがない。ちなみに、この時点ではまだRADWIMPSには手を出さなかった。本当にみんながみんな聞いている、という感じだったので、ひねくれものの私は避けていたのだろうと思う。私の高校ではそれほどにRADWIMPSが流行っていた。
ところで、音楽をその頃どんな風に聞いていたかと言うと、おさがりCDウォークマンの他に高校に上がってようやく買ってもらった携帯電話に入れるという方法をとっていた。もっとも、当時の携帯電話はSDを含めてそんなにたくさんは入らなかったから、曲数で言えばたかが知れていたのだけれど。
三年生になった。秋ごろに第四世代のiPod nanoが発売され、より多くの曲を持ち運べるようになる。ここに至ると音楽の聴き方が曲単位からアルバム単位に変わってくる。アーティストに深くハマる→アルバムを聴き倒す→次のアルバム→次のアーティスト→...といった具合の聞き方をしていた。ブームがひとしきり去ったRADWIMPSを聞き始めたのもこの頃である。半年付き合った恋人にフラれた時に"me me she"を聞いて泣いたのを覚えている。シングルカップリングに至るまで聞き漁ったが、だんだんスガシカオ宇多田ヒカルという現在でもヒエラルキートップ層に君臨するアーティストが台頭してきた。それらの変化はスピッツロキノン系を巻き込みながらゆるやかに行われた。早々に就活組として内定を勝ち取った私は受験とは無縁の生活を送っていた。九月の段階でほぼ卒業を待つのみという状態であった。そのため、休日にアルバムを何枚も借りてはお気に入りの綺麗なシルバーのiPodに入れて毎日聞いていた。

さて。この頃の私は無事に内定を勝ち取り前述の通り12月の初めにフラれるまで二つ後輩のかわいい恋人もいて、さながら順風満帆といった体であった。しかし、それは見かけの上の話で、三年生の六月まで家族とは仲が悪く、当時の恋人の存在のおかげでそれは改善したものの、普通に家族と接せられるようになった辺りで恋人にフラれてしまった。それまでに高く積み上げたいろいろな事柄がこの12月をきっかけとして次から次に溢れだそうとしていた。後にして思えば、高校卒業までの数か月は残っていた電池でなんとか潰れずにいたのだろうと思う。潰れなかっただけで相当ガタついていたのだが。
そんな折のこと。学校ももはや自由登校、本当に卒業式を待つばかりという状態で自動車教習に通いつつ、また遊んでくれる友人もほとんどおらず、無為に日々を過ごしていた。ある時TSUTAYAで、名前を聞いたことある程度のある女性アーティストのCDに何か強く惹かれるものを感じて借りることにした。彼女の声と詞は当時の私の(そして今の私でも)感情を代弁するかのように鼓膜に響いた。そのCDというのが、椎名林檎勝訴ストリップ』だ。それから卒業まで、私は彼女の椎名林檎東京事変両名義の曲を貪るように聞き続けた。お気に入りの曲は"月に負け犬"と"ギブス"、"依存症"だった。どのアルバムも大好きだったが、中でも最初に聞いた『勝訴ストリップ』が一番であった。これが椎名林檎の楽曲と私の出会いであり、今日まで連綿と続く(一方的な)絆の起こりであった。
こんな日々を送りながら無事に自動車免許を取得した私は、矢張り何事もなく高校を卒業することとなる。


またこんなにも長くなってしまった。よくもまあこんなに細かいことをいろいろ覚えているものだと我ながら感心する。社会人編として高校卒業から現在に至るまでのことを書こうと思っていたのだけれど、それは次回に持ち越させていただく。こんなにつらつらと長いだけの文章を最後まで読んで下さった酔狂なあなた。ありがとうございました。
では、また。